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わたしの “いのち”観

死を想って生きること

【横田南嶺さん(僧侶)の“いのち”観】 – 大自然と「ひとつ」のいのちを生きている –

2018.02.13

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僧俗問わず、各ジャンルで活躍されている多彩な方々に、ご自身の“いのち”観をまっすぐにお聞きしていくこの連載。今回ご登場いただいたのは、臨済宗円覚寺派管長の横田南嶺さんです。禅の境地からお聞かせいただいた「生きること」そして「死ぬこと」のお話は、やはり、究極的で、非常に明快なものでした。「いまここ」を生きるとはどういうことなのか、あらためて考えさせられました。どうか最後までおたのしみください。

横田南嶺(よこた・なんれい)

1964年和歌山県生まれ。1987年筑波大学卒業。在学中に出家得度し、卒業と同時に京都建仁寺僧堂で修行。1991年円覚寺僧堂で修行。1999年円覚寺僧堂師家。2010年臨済宗円覚寺派管長に就任。著書に『いろはにほへと―鎌倉円覚寺 横田南嶺管長 ある日の法話より』(インターブックス)、『祈りの延命十句観音経』(春秋社)、『禅の名僧に学ぶ生き方の知恵』(到知出版社)、『二度とない人生だから、今日一日は笑顔でいよう 生きるための禅の心』(PHP研究所)、『人生を照らす禅の言葉』(到知出版社)、『なぜ死ぬのが怖いのかー禅僧、漢方医と“生・病・死”を語る』(桜井竜生氏との共著、PHP研究所)、『二度とない人生を生きるために いつでもどこでも精一杯』(鍵山秀三郎氏との共著、PHP研究所)、『禅が教える人生の大道』(到知出版社)など。

生きていようが、死んでいようが、「いまここ」を離れることはない

——人は死んだらどうなると思いますか? どこか行くところがあると思いますか?

禅の問答に「死んでどこへ行く」「ちょっと厠(かわや)へ」というものがあるんですね。「隣の部屋へ」とか、いま風に言うなら「角のコンビニへ」とかでもいいんだと思いますけれど(笑)。生きていようが、死んでいようが、「いまここ」を離れることはない、という話です。だから、最初の質問にお答えするなら、「決してどこへも行きはしない」ということになるでしょうかね。

——すべては、いまここにおいて、生滅を繰り返しているだけだ、と。

そういうことです。たとえば、こうして「パンッ!」と手をたたく。この音はどこへ消えたのでしょう? 空気が振動して、音がしたという認識があらわれて、空気の振動が消えて、音が消えたという認識があらわれて……。いまここに現象がずーっとあらわれ続けているだけ。それは変わらないんですね。人が生まれて生きて死んでいくのも、これと同じことなんじゃないでしょうか。

生きている間は存分にジタバタすればいい

——横田老師は、死ぬのは怖くないですか?

さあねえ、それはそのときになってみないとわからないけれど、私なんか飛行機や船に乗っても怖がっているぐらいだから、やっぱり取り乱すんじゃないでしょうかね(笑)。いくら「生きているのも死んでいるのも同じことだ」と言ってみても、やっぱり人間ですからね、知らないところへ行くとなると、不安や恐怖に襲われることはあると思うんですよ。暑かったら汗が出るし、寒かったら鳥肌が立つ。恐怖感が出てくるのも、そういう自然のはたらきのうちのひとつですから、それはなにも悪いことではないと思うんです。生きている間は、存分にジタバタしたらいいんですよ。最後には必ず死にますから、安心して取り乱していればいいんです。もちろん、そのためには、まずは自分が大自然とひとつであることを自覚しなきゃいけないとは思いますけれどね。

——大自然とひとつ、ですか。

私たちは、いつだって、大自然とひとつのいのちを生きているんですよ。たとえば、先日面白いお話を聞きました。海の波というのは、だいたい、どんな日でも、たとえ嵐であろうが、1分間に18回、寄せては返すものなんですって。これは人間の呼吸の回数と一緒なんですよ。また、人間は満ち潮のときに生まれて、引き潮のときに息を引き取ると言われています。こういうのは、すべて、大自然とひとつであることの証でしょう。なにも「大自然とひとつになろう!」と頑張らなくたって、最初からひとつであるのだから、そこにくつろいでいたらいいんです。まあ、私自身、心底そういう風に思えるようになったのは、ごく最近の話ですけれどもね(笑)。

「いざ行かん雪見に転ぶところまで」

——横田老師にとって、「死を想って生きる」とはどういうことでしょうか?

評論家の立花隆さんの『死はこわくない』(文藝春秋)という本に、面白いことばが紹介されていました。「自分はずうっと落ちていく雪のようなもので、最後に海にポチャンととけて自分がなくなってしまう。そして最後に自分は海だったと思い出す」。明晰夢の研究家、スティーヴン・ラバージという方のことばです。そのことがすうーっと腑に落ちたらね、あとはどんなに不安になろうが、恐怖に襲われようが、一向に構わないんだと思います。

——最後には、かならず、大自然とひとつであったことを思い出すんですね。

芭蕉の句に「いざ行かん雪見に転ぶところまで」というものがあります。私はこの句が好きなんです。ああ、綺麗な雪だなあ、って、目の前の景色をワクワクとたのしんでいるうちにコロンと転んでね、そのまま雪とひとつになる、という……。こういう風に、生きて死んでいけたらいいなと思いますよ。

——本日は貴重なお話をありがとうございました。

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小出遥子

小出遥子

1984年生まれ。新潟県出身。早稲田大学第一文学部日本文学専修卒業。編集プロダクション、美術系専門図書館勤務を経て、現在はフリーランスの編集者・文筆家として、仏教系テキストを中心とした編集・執筆活動を行っている。いのちからはじまる対話の場「Temple」主宰。

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