わたしの “いのち”観

死を想って生きること

【プラユキ・ナラテボーさん(僧侶)の“いのち”観】- いまここをしっかり生きていけば大丈夫 –

2017.04.08

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僧俗問わず、各ジャンルで活躍されている多彩な方々に、ご自身の“いのち”観をまっすぐにお聞きしていくこの連載。第二回目にご登場いただくのは、タイ国スカトー寺副住職の日本人僧侶、プラユキ・ナラテボーさんです。異国の地で瞑想修行を長年おさめられたプラユキさんの“いのち”観とは……? ドキドキしながらお話をお伺いしましたが、さすが、まったく「ブレ」がない! 「死生観」ということばの意味自体を根底から問い直されるような、まっすぐなお話をお聞かせくださいました。ぜひ、じっくりおたのしみくださいませ!

プラユキ・ナラテボー

1962年埼玉県生まれ。上智大学哲学科卒。タイ・スカトー寺副住職。大学在学中よりボランティアやNGO活動に深く関わる。大学卒業後、タイのチュラロンコン大学大学院に留学し、農村開発におけるタイ僧侶の役割を研究。1988年、瞑想指導者として有名なルアンポー・カムキアン師のもとにて出家。以後、自身の修行のかたわら、村人のために物心両面の幸せをめざす開発僧として活動。またブッダの教えをベースにした心理療法的アプローチにも取り組み、医師や看護師、理学療養士など医療従事者のためのリトリート(瞑想合宿)がスカトー寺で定期的に開催されている。

http://blog.goo.ne.jp/yokienn

死後のことよりも、いまここをいかに生きるか

――人は死んだらどうなると思いますか? 死後、どこか、向かう場所があると思いますか?

うーん、わからないです(笑)。というか、私自身、そういったことにまったく関心をもっていない、というのが正直なところなんですよ。私にとっては、いつか必ず訪れる肉体の死についてよりも、いまここにおける「生死(しょうじ ※1)」とその輪からの解脱(げだつ ※2)の問題の方が、よりリアリティがあって、より切実な問題なので……。

※1「生死」:生まれ変わり死に変わりしてとどまることがない私たちの迷いの姿をあらわす仏教語。
※2「解脱」:あらゆる苦悩や迷妄の束縛から解放され、完全に自由になること。

――いまここにおける「生死」とその輪からの解脱、ですか?

仏教には「十二因縁(じゅうにいんねん ※3)」という教えがあります。十二の要素で循環する、あるがままの現象の生起と消滅の原理です。その輪の中に「生」と「死」があります。「生」とは自我の出現を指し、「死」とは自我の消滅を指します。自我が消滅すると苦しみが消えます。すなわち、「涅槃(ねはん ※4)」が出現します。

※3「十二因縁」:迷いの世界の因果関係を十二種の項目(無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死)の系列によって説明したもの。
※4「涅槃」:一切の悩みや束縛から脱した、円満・安楽の境地。

――涅槃というと、どうしても、死後行く場所のようにイメージしてしまうのですが、そうではなくて、生きている間に到達できるものなのですね。

はい。仏道実践によって気づきを得ていくと、十二因縁の輪から解脱することが可能になります。その先に実現されるのが涅槃です。私にとっては、死んだあとのことを考えるよりも、やはり、生きている間に涅槃を実現していくことの方が大事なので。死んだあとのことをどんなに真剣に、厳密に考えても、ぜんぶ概念になってしまうでしょう? それよりは、いまここでやるべきことをちゃんとやって、いまここで自由を生きていきたい、という感じですかね。

「涅槃」の実現は、私たちひとりひとりの行動にかかっている

――「いまここ」は大きなキーワードですね。

いまここにしか自由はないし、逆に言えば、いまここにないもののことにとらわれると、自由が失われてしまうんですよ。私も、いろんなタイプの悩みを抱えた方に対応していますけれど、みなさん、まだ起こっていないことを必死に考えて取り越し苦労したり、あるいは過去のことをあれやこれや思いあぐねて持ち越し苦労したりして、その分、余計に苦しんでしまっているような感じがありますね。たとえば「上司はきっとこんな風に思っているだろう」と言って苦しんでいる方に、「それってほんとう? いまここで実際に起こっていること?」と聞くと、ハッとした顔をされます(笑)。

――なるほど。

後先のことを考えすぎて、時間とエネルギーを消耗するよりは、いまここでやれることをしっかりやっていくのがいいと思いますね。いまここでベストを尽くしていくことが、結果として、よりよい未来につながっていくので。ほんとうにそこだけなんですよね。

――すごくシンプルですね。

だから、日本の自殺者が今後増えるかどうかとか、日本がこれからどうなるかとかね、そういった未来予測についても、実際のところほとんど興味がないんですよね。いま自分ができることに精一杯努めること、そこにしか関心がない。そこだけしっかりやっていれば、やっぱり、ちゃんと開けてくるものがあると信じているんですよ。それによって自殺者が減っていく可能性も高められるだろうし、それにしたがって日本もよくなっていくだろうと。

――未来がどうなっていくかは、いまここでやるべきことをきっちりやっていける人がどれだけ増えるかにかかっている、ということですね。

そういうことです。まずは自分から。そしてほんとうに、いまここで、ひとりひとりがきちんとベストを尽くして、縁あって出会った人々や、世界そのものと善き関係を結んでいくことができれば、みんなどんどん「生」も「死」も超えられるだろうし、そこに全体的な「涅槃」も実現されてくると信じています。

「生」も「死」も、いまここで繰り返されている

――プラユキさんご自身は、死ぬことが怖いとは思いませんか?

自分がですか? そもそもあんまりそういうことを考えてないんですよ(笑)。昔はもちろん怖がっていましたけど、出家してからは、ほんとうに、いまここをいかに生きるか、そこにしか興味がなくなってしまって。たとえ余命宣告を受けても、まだ来ない死を考えたりすることはないんじゃないかな。いずれにせよ、死が近づいたら近づいたで、そのときにちゃんと対応できるようなこころは、いまここでやるべきことをやっていくことでしか培えないですからね。

――まったくブレませんね! では、親しい方がお亡くなりになったときは、どのようにしてこころを向けていらっしゃいますか?

それもね、やっぱり、自分が、いまここでやるべきことをきちんとやっていくこと、ほんとうにそれだけなんですよね。私の師匠、ルアンポー・カムキアン師(※5)も、「ちゃんと修行をしなさいね」と言って亡くなりました。そのメッセージにすべてが語り尽くされていると思うんです。私に役割があるとしたら、師のメッセージをきちんと受け止めて、素直に修行に励んでいくこと。そして出会う人ひとりひとりに精一杯心を注いでいくこと。それだけですね。

※5「ルアンポー・カムキアン師」:タイの仏教指導者。スカトー寺前住職。開発僧(かいほつそう)として、貧困や環境問題の解決に尽力した。

――ほんとうにシンプルで、まっすぐですね……。

人間の心身だって、恒常的にあるもののように思われているけれど、よくよく見ていけば、すべて、瞬間瞬間に、生まれては消えていき……という、無常なるものなんですよね。そういった観点でみれば、ほんとうは、「生」も「死」もいまここにある。だから、肉体の死を、そんなにおおごとに捉えなくてもいいんじゃないか、というのはありますね。でも、いま、この肉体を持って生きていることは事実ですから、そこはちゃんと大事にして、いま自分にできることを、ただただやらせていただこう、という感じです。

――貴重なお話をありがとうございました。

※こちらの連載はTemple Webとの連動企画です。「プラユキ・ナラテボーさんとの対話/あるがままを受けいれた先にいのちの動きが見えてくる」もあわせておたのしみくださいませ!

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小出遥子

小出遥子

1984年生まれ。新潟県出身。早稲田大学第一文学部日本文学専修卒業。編集プロダクション、美術系専門図書館勤務を経て、現在はフリーランスの編集者・文筆家として、仏教系テキストを中心とした編集・執筆活動を行っている。いのちからはじまる対話の場「Temple」主宰。

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