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重厚な歴史あるお寺の住職は「前に出ない学級委員」 – 長光山 妙恩寺 住職 山澤英伸さん(静岡県浜松市)

2020.06.03

文:石黒好美

 JR浜松はままつ駅からひと駅、天竜川てんりゆうがわ駅を降りると静かな住宅街の中でひときわ目を引く大きな屋根が見えてくる。門から続く広くまっすぐな道を進み、堂々とそびえる本堂に入ると、見事な細工のほどこされた天蓋てんがいや照明の美しさに目をうばわれる。おごそかなご本尊ほんぞんは、日蓮宗にちれんしゆうをひらいた日蓮聖人が描いた曼荼羅まんだらをあらわしているという。

 この地に妙恩寺が建てられたのは700年以上も昔、鎌倉時代のこと。三方原(みかたはら)の戦いで武田信玄たけだしんげんに敗れ、逃げてきた徳川家康とくがわいえやすをかくまったとも伝えられている。

「私が着ている袈裟けさに入っている妙恩寺の寺紋じもんも、家康から授けられたものです。『丸に二引にびき』の紋は、お椀とお箸をかたどったものだとか。お粥を出してもてなしてくれた寺に対する、家康の感謝の気持ちといわれています」

 こう教えてくれたのは住職の山澤やまざわ英伸えいしんさん。おだやかなまなざしながら、どっしりと構えて揺るがないふるまいには、たのもしさを感じる。しかし、実はまだ40代。古い歴史を持つ、大きなお寺の住職としては異例の若さだ。

 妙恩寺のある天竜川町は昔、「端場はしば」と呼ばれていたこと。そして寺紋の「箸と椀」から、妙恩寺が「はしわさん」と呼ばれるようになったこと。お寺とこの地域の歴史をすらすらと流れるように山澤さんは語る。聞いていると大河ドラマを見ているような気分になる。

「昔から歴史が大好きで、小さい頃は日本史の先生か学芸員になりたいと思っていたんですよ」

妙恩寺本堂

お坊さんはメディアだ

 祖父は先代の住職、父親も妙恩寺の末寺まつじ(地域の大きな寺に連なる寺)の僧侶という家で山澤さんは育った。

「小学生の頃からいつも学級委員をまかされるタイプの子でした。でも、みんなを熱く引っぱっていくリーダーではなかったんです。文化祭でもこうすると上手くいきそう』という計画を考えることは好きだけど、本番で主役になるのは他のクラスメイトでいい。自分は影から見ていたい(笑)。人に何かを教えて、進む道をしめすことが好きなんです。だから、学校の先生にあこがれたんでしょうね」

 歴史好きの山澤さんは、日本史の研究が盛んで教員免許もとれる大学に行くことにした。選んだのはなんと神道しんとう系の大学だった。「若さゆえの反発から『お寺から遠いところへ行きたい』という気持ちもありました」と山澤さん。家族は驚いたが、反対されることもなかったという。「妙恩寺の歴史の中では、実の子が後を継ぐことの方がめずらしいんです。だから、家でお坊さんになれと言われたことはありません」

 学生寮の中にも神殿があり、毎月決まった日にはみんなで神社にお参りに行く。今までとは全く違う生活の中で、山澤さんは遠ざけたかったはずの仏教のおもしろさも発見することになる。

「日蓮宗なら日蓮大聖人だいしようにんのように、仏教には『有名なお坊さん』がたくさんいますよね。でも、神道では神主かんぬしさん個人がクローズアップされることはほとんどない。仏教はお釈迦しやかさまの言葉を、お坊さんというメディアを通して伝えてきたんだ、と気づいたんです。それは教師に似ているけれど、学校の生徒だけでなくもっとたくさんの人に伝えられる仕事なんだと。でも、あくまでも主役はお釈迦さまの教えと、それを聞く皆さん。学級委員時代から、前に出すぎないようにしてきた自分に向いているかも、と思ったんです」

 同じ頃、山澤さんは寮の近くの草刈り活動に参加した。その時、なんと下宿のすぐ近くに日蓮聖人ゆかりの『誓願せいがんの井戸』があることを知っておどろいたという。「誓願の井戸」は、日蓮聖人が100日間、毎日井戸の水をかぶって修行をし、「日本に法華経ほけきようを広めよう」と誓いを立てた場所だとされる。

 その頃、妙恩寺はお寺の大改修の真っ最中でもあった。山澤さんの祖父である当時の住職は、普段のお勤めに加えて工事の手配にも追われていた。
「それまでは、一人で頑張る祖父の姿が気になりつつも、浜松にもどるつもりはありませんでした。でも、思いがけず誓願の井戸を見つけたこともあり『自分はお寺から逃れられない運命なのかもしれない』と思うようになりました」
 山澤さんは大学を卒業したのち、妙恩寺で僧侶として勤め始めた。

大学卒業後に通った日蓮宗布教研修所にて。研修生を代表し、他宗の衣を着ている

数々の資格も評価され、30代で住職に抜擢

「妙恩寺は、もとは日蓮上人の教えに直にふれ、熱心な信仰を持っていた金原法橋きんばらほうきようさんのご自宅をお寺としたのが始まりです。江戸時代には現在の本堂の元となった建物を建てるときにも、檀家さんたちが費用や木材の調達、大工との調整役に大きな役割を果たしたという記録が残っています。つまり、檀家さんが作り、檀家さんによって支えられてきたお寺なのです」

 山澤さんが僧となって10年ほどたった時、前住職が亡くなった。今でも、次の住職を選ぶときには最初に檀家が話し合って5~6名の候補者を選ぶ。その後、日蓮宗の長老が審査をして、新しい住職を決めることになっている。
 新住職の候補として選ばれたのは各地のお寺で住職を務める大ベテランばかりだった。そんな中、候補のひとりに当時まだ35歳の山澤さんも入っていた。

「翌年に創建700年の行事を控えていました。大きな催しにあたり、幼い頃から妙恩寺の風習を見聞きしてきた私に白羽の矢が立ったようです。また、妙恩寺は100年ごとの節目はこれまでも必ず若い人が住職になっているんです。徳川家康をかくまった200年目の住職は20代だったんですよ。檀家さんもこうした歴史をごぞんじだったんですね」

 山澤さんが20代の頃から積極的に学び、仏教を分かりやすく伝える布教専修師ふきようせんしゆうし、厄祓いや地鎮祭の祈祷きとうが行える修法師しゆほつしをはじめとする資格を持っていることも評価された。特に、声明師しようみようし(お経に節をつけて歌のように仏さまをたたえるもの)の資格は、静岡県西部では山澤さんを含め10名ほどしか持っていない。
 こうして、山澤さんは55代目の住職として妙恩寺の700年目の節目を迎えることとなった。

荘厳な雰囲気の本堂

何でもオープンにして、檀家とフラットに話し合える関係を

「檀家さんの中には『こんなに若い人が』と心配される方もいましたし、とても期待していただける方もいました。私も思いに応えねばと必死に働きました」

 たくさんの檀家宅でのお参りに法事や仏事。加えて、新しく作った永代供養殿えいたいくようでんのおひろめに、700年目の行事の準備と急に忙しい日々が訪れた。精いっぱいにとりくんでも手が回らないことも多く、檀家からは「新住職はお参りにも来てくれない」と不満の声が上がるようになってしまった。 
 住職になったのもつかの間、山澤さんはプレッシャーと過労から、ひどいめまいに悩まされるようになった。メニエール病にかかってしまったのだった。

 そんな時、山澤さんを支えたのは総代と呼ばれる檀家のリーダーたちだった。檀家に対しては「一人の住職でできることには限りがある」と説明してくれ、山澤さんには「がんばりすぎない働き方を考えてほしい。住職が倒れては元も子もない」と声をかけてくれた。

「檀家さんのお寺への期待が大きいあまり、小さいころから住職とぶつかる場面も見てきました。それだけに、自分がしっかりしなければと気負い過ぎていたのかもしれません」
 誇りを持った檀家の支えは心強いものの、一人ひとりの熱い思いにていねいに向き合わなければ、お寺は立ち行かないということでもある。山澤さんは、檀家とのコミュニケーションを大きく変えることにした。

「議事録も予算も、お寺の現状が分かる資料は何でもオープンにすることにしました。その上で『私はこう考えていますが、皆さんはどうでしょう』と、強く訴えるでもなく、かといって遠慮するでもなく、フラットに話し合えるようにしました。行事の際に『湯茶の接待もないのか』とか、『最近の若い檀家さんはお客さん気分で、自分から動かない』なんて不平をお聞きすることもあります。でも、そこで住職が何とかします、と引き取るのは違うと思うんです。『自分たちのお寺は、自分たちで何とかする』という思いが、妙恩寺を支えてきてくれたのですから」

 進むべき大まかな道すじは示しながら、主役はあくまでも檀家。子どもの頃の学級委員と同じスタンスが、山澤さんらしい住職のすがたとなっているようだ。

永代供養墓「常経殿」。「お骨を収めて終わり、という永代供養にはしたくない」という山澤さん。毎月第三日曜にご供養のお経があるが、参拝者はいつでもお参りにくることができる。棚のロウソクやお線香は「お参りに来る方が次に来るときのために置いて行かれるんです」
納骨堂

「中道」をもとめて

 仏教を学び始めてから現在まで、山澤さんの心を強くとらえているのは「中道ちゆうどう」という言葉だ。
「中道とは、偏らないで、まん中を進みなさいということです。でも、自分は中立でいたいと思っても、ついどちらかに偏ってしまうし、とても難しいことですよね。まん中ってなんだろう? 中道をめざすとは、どういうことなんだろう?」

 さまざまに考え、学ぶうちに山澤さんがたどり着いたのは「世界にいる人みんなが、安心して平和に暮らせること」こそが「中道」ではないかというとらえ方だ。
「『みんなが安心して平和に暮らす』のは、誰もが願うことです。でも、それを実現するにはどうしたらいいか。そこで意見が違うと右と左に分かれたりして、また中道から遠ざかってしまう。僕は『中道』は、インドで生まれた数字の『0(ゼロ)』のようなものとも考えています。何かを生み出していくときの基本となるものではないか、と」

 0があるからこそ、「1」や「2」の位置も分かってくる。「私たちはここを基準にしたいね」「ここをめざしていきたいね」という基準の位置を、みんなで学びあいながら決めて進んでいく。それが仏教をとおしてできることではないかと山澤さんは考えている。

「仏教にはさまざまな宗派がありますし、おなじ日蓮宗の中でもいろいろな考え方があります。私は若い頃は、どれか一つに正しい道があるのだと思っていました。でも、本当はそうじゃないんですね。富士山に登るときにたくさんのルートがあるように、方法は違ってもいい。大切なのは、たどりつきたい山頂を見失わないことなのだと思います」

さらに多様な人とともに歩むお寺へ

 妙恩寺は建物も道具もしきたりも、歴史を伝える貴重なものばかり。山澤さんは受け継がれてきた格式は守りつつ、これからは、今まで妙恩寺を知らなかった人にもリラックスして訪れてもらえる雰囲気もまた大切にしていきたいという。「昔はお寺を子どもが走り回っているのは当たり前の光景でした。いま80代の檀家さんが小さい頃は、本堂の屋根をすべり台にして度胸だめしをしていたそうです(笑)」

 近ごろは再び妙恩寺に子どもたちの明るい声が響きはじめた。夏休みや冬休みには小学生向けの「ミニ寺子屋」を開催。宿題をしたり花火やBBQをしたりと、子どもたちはお寺で楽しく過ごす。また、お寺の敷地の一部が地元のボーイスカウトの事務所となっている。境内で訓練をする元気いっぱいな子どもたちの姿に、参拝に来た人たちも目を細めている。
 
 日蓮聖人の一番の信徒であった金原法橋さんに始まり、長く檀家さんの献身的なはたらきと共にあった妙恩寺。みんなで考え、話し合い、一緒に作ってきたからこそ、多くの人にとってかけがえのないお寺であり続けてきた。

 現在では新しいチャレンジとして始めたヨガやフラダンスの講座も人気を集めている。大晦日から新年にかけては甘酒をふるまい、たこ焼き屋の出店もある。檀家ではない人も妙恩寺を訪れ、賑やかで温かい新年を迎えている。

「檀家さんからも『もっと気軽にたくさんの人が集まれる場所があるといいね』と提案をいただいています。これからも、地域の皆さんが安心しておだやかに過ごせるコミュニティをつくる場所として、お寺を使ってもらいたい。そして、それをしっかりサポートできる住職でありたいと思っています」

夏休みの「ミニ寺子屋」にて、宿題にとりくむ小学生たち

寺子屋の卒業生が勉強を教えてくれることもある

お寺画像
静岡県浜松市東区
長光山 妙恩寺
徳川家康公ゆかりの日蓮宗寺院

寺院ページを見る

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