「祈り」の本質とは – 今こそあらためて考える【後】庄司真人住職(大阪府・法華寺)
2020.04.22
(前編はこちら)
法華寺のご霊水が示す「祈り」の力
神仏の存在に確信をもったといっても、日々の中でときに確信が揺れることもあります。しかし、その後もさまざまな体験から、確信は深まっていきました。
たとえばこんなことがありました。うちのお寺に580年湧き続けている「ご霊水」の水脈が40年ほど前に衰えはじめ、15年ほど前、ついに途絶えかけたのです。読経と祈念をし続けて1ヶ月ほど経つころ、ちょうど庫裏の建て替えが完了し、まさに棟上げの吉日の早朝、なんと勢いよく水が湧いてきました。歴代の住職が庫裏の新築を喜んでおられた証だと感じました。
以来、湧きだし口のお掃除やお堂での読経に、より一層心を込めるようになりました。水を司る龍神がおられると感じたからです。不思議なことにやがて水流は復活し、今では古来の水量を取り戻しています。また飲料水としての安全を考え、保健所の水質検査に出したところ、51項目の検査基準を満たす水質だと証明され、感謝の念を深くしています。
また當山には、誰にも知られていない蔵王権現像が、番神堂内に一体お祀りされています。そのいわれはわかりません(法華宗では通常、お祀りすることはありません)。しかしあるとき、檀家の方が「蔵王権現さんが法華寺にあるという夢を見ました」とおっしゃる。神仏の波長はテレビやラジオの電波と同じく、目に見えないけれど、受信機のチャンネルが合えば、伝わるのだと思いました。
こうした体験は、寺院僧侶であれば、少なくないと思います。
霊的体験のきっかけになり得る「修行」では、何をするべきか
とはいえ、私の霊的体験のきっかけとなった「追い込まれた気持ち、どん底の体験」は、望んでやってくるわけではありませんし、望みたくもありません。
それに近い体験が、いわゆる「修行」というものです。滝行、寒水行 、断食、回峰など、修行には厳しいものもあります。日数や作法など、どうにもならない「枠」があり、その「枠」の中で、心の深みを味わうことができます。しかしその厳しい修行経験も、鼻にかけると「増上慢」、いわゆる「うぬぼれ」という最低の心の在り方になってしまいますので、気をつけなければなりません。淡々と自分のために、魂を清めるために、人知れず行う修行こそ尊いのです。
一般の人々には、「人に順番をゆずること」「町のごみを拾うこと」「禁酒・禁煙」「ダイエット」「毎日の瞑想」など、ほんの少しのことでも「自分にとっての修行」といえば「修行」です。「現実世界を生きること自体が修行である」という人もいます。つまり、修行の具体的な内容よりも、「修行をしよう」という気持ちが大切だということです。
人知れず行う善行を「陰徳」と言います。ひけらかさず、誰にも見返りを求めないものです。まだ暗い早朝、路上の吸い殻を集める人がおられます。公衆トイレの汚れをそっと洗い流す人もいます。このような人々は「増上慢」から一番遠く、そばには神仏がついておられます。
「祈り」は本来、神仏への宣言
「今だけ、自分だけ」と、現世の快楽にのみ目を奪われていると、祈りの世界からは遠い生き方になります。「祈り」の土台は、苦しみの中から生まれます。また、いくら富、名声があっても「生老病死」は避けられません。「苦しみ」を「苦しさという認識」でしかとらえられないと、行きづまります。「苦しみ」も「修行」ととらえることが大切だと思います。
祈りとは本来、「私自身が、自分の人生の役目を果たすため、社会の一員として何か役に立ちたい」という気持ちを神仏に宣言することだと私は考えます。その中で、確かに神仏の慈悲があり、助けをいただくことも実際あるでしょう。しかし宣言しても、どん底の生活や悲劇の淵に追い込まれることもあるのが人生です。 神仏の存在を確信していると、それもこれも喜劇も悲劇も、なにもかも含めて、神仏は静かに見守っておられることを感じるようになります。喜びにあふれる我々、泣き叫ぶ我々を、憐れみ、愛おしみながら、神仏はそこに存在しておられます。