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「祈り」の本質とは – 今こそあらためて考える【前】庄司真人住職(大阪府・法華寺)

2020.04.20

 新型コロナウイルス感染症の影響が広まる中、不安に包まれた日常を送られている方も多いと思います。不安な時、この状況が早く終わるようにと、人は思わず祈るような気持ちになったりします。
 しかし、祈りとは、本来はどのようなものなのでしょうか?「困った時の神頼み」というように、ただ神仏に状況打開を願うことなのでしょうか? 特にこのような時こそ、祈りの本質そのものに目を向けて、自らの心身を整えていくことが大切とも言えます。その祈りの本質について、法華寺住職の庄司真人しようじしんじんさんが語ってくださいました。

庄司真人 (しょうじ しんじん)

平成30年4月、住職就任。公立中学校社会科教師として18年勤務後、退職。現在は臨床心理士、学校心理士、特別支援教育士の資格を持ち、寺務と並行して公立学校カウンセラーとして勤務。僧侶本来の姿勢は、人の悩み、苦しみに寄り添うことであるとの思いから、宗教と心理学の両面から檀信徒の方々に向き合っている。

法華寺寺院ページ

「祈り」の語源と本来の意味


「祈り」の語源は諸説ありますが、「い」とは「神聖なもの・いのち」であり、「のり」は「宣べる」という説が納得しやすいと私は思います。「神聖な言葉を口にすること」「神聖なものに対して、宣言すること」ということになるでしょう。

 現代人からすると「祈り」のイメージはどのようなものなのでしょうか?
「何かがうまくいってほしい」「嫌なことから身を護りたい」など、漠然と「お願い」のイメージが強いような気がします。
 つらい現実を生きる我々にとって、「祈り」は「お願い」でもよいと思います。よく「神仏に頼みごとしたらアカン」という人がいますが、「家族が生死の境をさまよっている」「災害で安否がわからない」など思いもよらぬ事態に遭遇した時、人は何かに祈らずにはおられない。それはたいへん自然なことだと思いますし、「神仏の慈悲」は確かに存在します。

 では、その「何か」とは、神なのか仏なのか。ご先祖様か、信じる宗教の宗祖なのか。人によってさまざまだと思いますが、要はその存在について「いてくだされば良いなぁ」ぐらいの半信半疑なのか、「必ずおられる」という確信をもっているのかによって、「祈り」に対する認識は当然、違ってきます。

 神仏を信じること、宗教の教えを信じること。それは、最もシンプルで、最も難しく、最も大切なことです。我々宗教者も、信仰強い一般の生活者の方も、「神仏はおられますよ」「あの世はありますよ」と口では言っても、肌感覚で確信している人は多くはないと思います。一神教を信ずる方々と話をしても、「神様の存在を確信している人は、そう多くない。みんな半信半疑だ」とよく耳にします。
 また、オウム真理教による一連の事件が世間に衝撃を与え、霊感商法や詐欺のニュースが流れるたびに、「神を信じる」「仏を信じる」ということが、何か危険なことのように感じる人も出てきたように思います。

絶望の淵での「祈り」が変化をもたらした実体験

 お寺に生まれた私は、幼いころより、本堂で本尊に手を合わせることは当たり前のこととしつけられてきました。けれど少年時代から青年期は、実際のところ、本当に神様や仏様はいるのか、その実感もなく、周囲に合わせて形だけをとっていました。受験やケガなどで困った時に手を合わせ「うまくいきますように」とお願いする、そのようなものでした。
 ただ、大人たちから「そんなことをしたらバチあたるよ」とか「神仏のお叱りをうける」とか言われるので、「神仏とは恐ろしい存在だ」という畏怖いふの気持ちは小さくなかったように思います。もっと優しくしてくださるのが神仏ではないかと、疑問を持っていました。

 自分自身の力をたのみ、何とか切り抜けられると思っていた若いころは、祈りについての認識は「お願い」程度でした。しかしある時、私の魂を揺さぶるできごとがありました。30代後半、とあることに行きづまり「もう限界、苦しくてたまらない」という状態になったのです。何とかしようと、とことんまでやってみて、それでも絶望の淵から逃れられず、何度も何度も「神仏がおられるなら何卒お救いください」と懇願しました。しかしご本尊や諸佛象は、何も言わずに黙ってこちらを見ておられるだけでした。

法華寺本堂に安置された、本尊をはじめとする諸仏

 ある夕方、涙を流し、うなだれて本堂に座っていると、突然、目の前で光が輝きはじめました。
 神仏が光そのものとして、そこに存在し、私自身にその世界を示している。そういう体験でした。その後の数日間、自分の目や認知がおかしくなったのではないかと、何度も本堂に足を運びました。そのたびに神仏の光は現れます。そのうち、それが錯覚や気の迷いではないことがわかってくると、やがて浮かんできた経文は「因其心恋慕いんごしんれんぼ 乃出為説法ないしゆついせつぽう」(心の底から仏を恋慕することにより、仏は出現し語りはじめる)というものでした。これは、私が経文を頭ではなく身体で読んだ最初の体験です。

神仏からはどう見えるのか? を意識してみると

 存在の確信をもって神仏を眺めてみると、あらゆることが違って見えます。
 私流に言うと「回路が開いた」という感じです。それ以来、私側からではなく、神仏のほうから見たらどう見えるのかということを意識するようになりました。「この願いは、自分だけが良ければよいという勝手なもの」「これは欲深い態度」と、自分の行いを自省するようになりました。

 また一方で、神仏の目をこころがけていても、私自身、つい欲深い気持ち、怒りの気持ちも浮かび、考え違いも起こします。しかし、そんな時でも神仏は「赤ん坊の失敗をやさしく見守る」かのように、我々を温かい光で包んでくださっていると感じるようになりました。

 そして逆に、神仏にも人と同じような気持ちがあるはずで、「純真な気持ちはうれしいが、疑いを持ちながら接してこられるのは悲しい気分だろう」と気づいたのです。

後編に続く

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まいてら住職

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まいてら登録寺院のお坊さんを総称して「まいてら住職」と言います。まいてら新聞では、それぞれのお寺の魅力を発信したり、皆さんの疑問・お悩みにどんどんと応えていきます。

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