墓じまいの風潮に、供養文化の本質について考える(法華寺住職・庄司真人)
2020.11.10
庄司真人 (しょうじ しんじん)
平成30年4月、住職就任。関西学院大学文学部・兵庫教育大学大学院卒。公立中学校社会科教師として18年勤務後、退職。現在は臨床心理士、学校心理士、特別支援教育士の資格を持ち、寺務と並行して公立学校カウンセラーとして勤務。僧侶本来の姿勢は、人の悩み、苦しみに寄り添うことであるとの思いから、宗教と心理学の両面から檀信徒の方々に向き合っている。
お寺の法要では、「散華」という儀式があります。華皿とよばれる平たいカゴの中に色づけた紙の花びらを入れて、歌のような読経とともに天に撒きます。美しく舞う花びらや音楽によって「たとえようもなく美しい仏の世界」を現わそうとしています。
華皿は、今は殆ど金属製ですが、古くは竹かごで出来ていました。法華寺には、江戸時代からの竹かごの華皿が現存しています(大変貴重なので使わずに保管しています)。華皿の材質や形は変わっても、「仏の世界の美しさを表現して、そこでの来世を願う」という本質的な意味合いは変わりません。
子どもに迷惑をかけたくないという風潮に思いをいたす
亡くなられた方への供養も同じで、「形や方法」は時代と共に変わっても、その「本質」は変わらずに伝わってほしいと思います。
ここ数年、「墓じまい」「仏壇じまい」という言葉が、流行語のように聞こえてきます。また、比較的元気な中高年世代が「子ども達に迷惑をかけたくないので、私の世代で片付けます」という声も耳にします。確かに、子供さんがおられない、嫁いだ娘に頼れないなど、様々な理由がある場合もあります。しかし、子どもさん、お孫さんも元気で過ごされているのに、早々とお墓や仏壇を処分してしまうことがひとつの風潮になっていると感じます。
私は「迷惑かけたくない」という真意や本音がどこにあるのか、思いを巡らしてきています。
親子関係、家族関係は複雑です。供養を継承したいけれど、どうにもならない事情がある場合もあろうかと思います。中には「若い世代から、難儀なことを押しつける親だと思われたくない」「まずは嫌われたくない」という気持ちもあるかもしれません。
しかし、子どもに供養文化を継承させることは、本当に迷惑なことなのでしょうか?手間を取り、時間を費やすことによって知ることや得るものもあります。
私の知っている一人娘の方は、やむなく墓じまいをされましたが、方々で交渉し煩雑な手続きをすることで、「先祖の重み」を知ったとおっしゃっていました。その方のお家の墓はなくなりましたが、ご縁のお寺でお位牌の供養を続けられています。
お墓や仏壇の処分で、子孫が供養について考える機会を失う
子供たちの意見も聞かずにお墓や仏壇を処分したりすると、若い世代は先祖の供養について深く思いをめぐらせる機会が失われます。
人は、病気になったり、年老いたり、死を自覚するようにならないと、「ご先祖様」や「あの世」のことは意識しないものです。したがって、若いうちに供養の営みが失われると、先祖という自らのルーツや、死後のあの世について考える重要な機会を失ってしまうことになります。
以前、ホスピスのドクターの話を聞いた際、「末期の病状」を受け入れることができるか、それともイライラとあがき続けるかの分かれ目は、供養文化やその営みに触れてきたかどうかとおっしゃっており、とても興味深く拝聴しました。
生死にかかわる自らを超越した世界観に触れて人生を歩んでいくことで、肉体的な死は恐れるものではなく、死そのものを穏やかに受け止めることが可能になり、安らかな最期につながっていくのでしょう。
先祖の存在やお墓は人生のパワースポット
現世(この世)からだけの視点、今生きている時間でしか物事を捉えられなくなっている社会風潮が、供養文化の衰退に拍車をかけているように感じます。
私は僧侶として、「あの世からの視点」「亡くなられた方の視点」から、私たちがどう見えるのかを考えるようにしています。亡き人、前の世代の方々の立場になれば、「私(故人)への供養は迷惑なこと」だと子孫が考えているなら、その事実に亡くなられた方々がどれほど悲しまれるかは想像に難くありません。
また、故人が子供や孫にあの世からメッセージを送りたくても、子孫が目を閉じて耳をふさいでいては、そのメッセージは伝わりません。ご先祖や亡き方々は、無条件で子孫の最大の応援者であり、温かいまなざしやメッセージを送ってくれるご先祖との交流が途絶えることは、厳しい世界において元気に生きるエネルギーをもらえる重要な源泉を失うことでもあります。
この観点で言えば、ご先祖のお墓は人生のパワースポットであり、墓じまいはそのパワースポットを失うことでもあります。やむを得ない事情で墓じまいをする場合も、そのパワーに以後も触れ続けられるような工夫を丁寧にほどこす必要があります。
社会的な供養も、身内に対する真心の供養があってこそ成り立つ
そして、供養は身内だけではありません。「戦災死没者」「英霊」「災害の被災者」など、血縁に閉じない社会的な意味での供養もあります。
そのような社会的な供養も、身内に対する供養への思いや営みがあってこそ成り立つと考えます。身内の供養には冷淡なのに、社会的な供養には熱心というのはあべこべではないでしょうか。身内への供養が廃れれば、血縁を超えた社会的な供養も廃れ、私たちが血縁を超えてお互いに頼り合う社会的な絆も希薄になっていくことは想像に難くありません。
「迷惑は絶対厳禁」「苦労は悪」では、こころ豊かな人生からは遠ざかります。面倒や苦労があってこそ身につくものや気づくものも少なくありません。安易な風潮に流されて、後々の子供達が失うものは、供養の「本質」であり、それは、一度失うと取り戻すことは難しいと感じています。
まとめますと、私なりに考える供養の本質は次のとおりです。
- 終末期に死そのものを穏やかに受け止める、死生観の醸成
- 人生を心豊かに生きるエネルギーをもらえる
- 血縁のみにとどまらず、社会の多くの人々とのつながりとお互い様を感じる
私自身は一人の僧侶として、供養の本質を縁ある方々にこれからも丁寧に伝えていきたいと思います。