彼岸に想う。いつか帰るあの世は夕陽の美しさと重なる(法華寺住職・庄司真人)
2020.09.21
庄司真人 (しょうじ しんじん)
平成30年4月、住職就任。関西学院大学文学部・兵庫教育大学大学院卒。公立中学校社会科教師として18年勤務後、退職。現在は臨床心理士、学校心理士、特別支援教育士の資格を持ち、寺務と並行して公立学校カウンセラーとして勤務。僧侶本来の姿勢は、人の悩み、苦しみに寄り添うことであるとの思いから、宗教と心理学の両面から檀信徒の方々に向き合っている。
私は僧侶でありながら臨床心理士としても働いております。
学んできた臨床心理学は、大雑把には「人の思考や行動」を扱う認知行動派と「無意識という領域を扱う」精神分析派にわけられます。無意識を探る手立ては「夢(眠っている時に見るほう)」です。夢は自分で意識して操作できないので、自分自身で気づかない部分、人として感知できない部分、神仏などのグレートサムシングからのメッセージも受け取ることができるとされています。今では少なくなっているユング心理学のカウンセラーは、クライエントが見た夢の内容から示唆を与えます。これを「精神分析」といいます。
私は認知行動派の心理学を学んでいますが、15年ほど前、縁あって2年間の「精神分析」を受けて、自分の無意識への旅を続けました。そこでは、次のような仏教的な夢もたくさんありました。
夢の中で出会った先々代住職。そして、忘れられない美しさの夕陽
「私のお寺の三十番神堂の階段に先々代の住職が立っており、『あれを見なさい。元々はこうなんだ』と指さす方向には、今まさに海に沈もうとする真っ赤な夕陽があった」
先々代は亡くなられて20年ほど経っていましたが、夢の中で久しぶりにお会いして驚きました。そしてそれ以上に、その夕陽の美しさが大変印象的でした。
その頃の私は中学教師として、多忙を極めておりましたし、仏教的な知識も乏しかったのですが、この夢を分析したカウンセラーはすぐさま「日想観が現れているのでしょう」と示唆を下さいました。日想観とは「浄土観法」の一つで、夕陽を見て、その丸い形を心に留める修法です。極楽浄土を感じる修行で、観無量寿経に記されています。私は法華宗の僧侶なので、それまで全く知らないことでした。
現世は旅。いつか帰るあの世は夕陽の美しさと重なるもの
それからの私は、夕陽を見るたび、人の心の根源にある「あの世への連想」に思いを馳せることが多く、特に彼岸の頃は真西に沈む夕陽に感じ入るようになりました。
我々が現世を生きることは「旅」とおなじで、いずれその旅が終わり「故郷の我が家」に帰ります。その懐かしい故郷の家に通じるものが、夕陽の美しさにたたみこまれているように思います。あの世は怖れるものではなく、思慕に近い感覚を持つことが日想観だと思っています。日が暮れつつあるとき、夕景はいっそう美しく輝いています。
人は人生の晩年にこそ光輝くべきであり、晩年の幸福感こそ、とても望ましいものです。即席や努力なしで手に入るものではなく、長い時間をかけて自分を修練した後に得たものが本当の幸福感につながるのでしょう。
夕陽は沈みますが、闇を経て、朝焼けとともに陽はまた登ります。命の根源であり、神仏エネルギーの元である太陽は仏教の輪廻思想も反映していると感じます。