仏教のお葬式って何が良いの?無宗教葬が増える時代に考える(教西寺 住職・三宅教道)
2021.07.15
三宅教道
あなたのお話をお聞かせください。話すだけで心が軽くなる方もいらっしゃいます。気楽に世間話、ぐち悩み、ご相談をしていただけます。年齢・性別・社会的立場等関係なく、どなたにも来ていただけるようにしたいと考えています。
増える無宗教の葬儀。遺族から後悔の声も聞こえてくる
コロナ下で無宗教でのお葬式が増えているそうです。ところが、無宗教葬を行ったご遺族からは、「何をしたら良いのかわからなくて困った」「弔った感覚が少なかった(満足度が低かった)」という声を聞くことがあります。
実際に、無宗教のお葬式の後悩まれ不安を感じて、四十九日の法要から教西寺でお勤めされた方もいます。その方々は、法要の後、「本当にほっとしました」とおっしゃいました。仏教でお葬式をすると、何が良いのでしょうか。どうして安心される方が多いのでしょうか。
仏教は、亡き人と私をつなぐ物語を示してくれる
亡き方はどこにいかれたのでしょうか。今、どうされているのでしょうか。消えてなくなった、では納得できない心情があると思います。そこで、天国から見守っている、風になった、お墓にいる、などそれぞれに亡き方の居場所を求める方があると思います。こうした問いへの答えを、仏教では聞くことができます。亡き方の行方と私たちがこれから何を頼りに生きていくのか、それらの物語が仏教の教えの中で示され、遺された皆で共有できるのです。
浄土真宗では、亡き方は阿弥陀如来の清らかな世界、極楽浄土に往きます。そして仏の悟りを得ることができます。亡き方は体も心も苦しみから解き放たれ、安楽の境地に至るのです。そして、仏さまとなられた亡き方は、この世界に還りきて、私たちを護って下さいます。私たちは「亡き方には苦しみがない」「私たちは見守られている」という安心の中に生きていきます。そして私たちも生ききった後は、阿弥陀如来に抱かれ、亡き方と同じ極楽浄土で再会できるのです。お寺でのお葬式は、それを空間全体から感じることができます。
そして、仏教には法名(戒名)があることも大きなことです。俗名 (生前の名前)から、法名の名乗りを得ることで、いわば俗なる存在から清らかな聖なる存在となります。法名とは、親からもらった名(過去)、本人の生き様(現在)、仏として見守って下さる存在(未来)が含まれる真なる名です。法名によって亡き方がより尊く感じられます。
このように、仏教によって「いのちのゆくえ」や「どのように生きていくか」が示されます。暗闇の中の光のように、私たちのよりどころとなるのです。
時空を超えて亡き方の記憶を共有できるお寺という場
私は、たとえ亡くなられてから初めてお会いする方であっても、その方の人生やお人柄をできる限りお聞きします。生まれはどこでどんな時代?好きな食べ物や趣味は?ご家族の思い出、出かけた場所は?お仕事や大切にされていたことは?ほんの少しですけど、その方のことを教えていただきます。お葬式の導師を勤めるにあたって、私自身がその方のことを知ってから送らせていただきたい、との思いからです。
最近、私という「他人」が亡き方のことを知っている、ということがとても大きいことではないかと思うようになりました。亡き方のことを一緒に話せる人がいない、という方は少なくありません。何年か経つと、友人や知人もその人のことを忘れていきます。職場や学校では亡くなったことを話しにくいこともあるでしょう。身内以外に亡き方のことやお葬式のことを知っていて、何年経っても話すことができる相手がいるということが、本当に力になるということを実感します。いわば「伴走者」。お弔いの時間を共に過ごす、ただ一緒にいる、というだけでも安心につながることがあると感じています。
また、住職個人だけではなく、「お寺」という視点で言えば、例えば10年後でも100年後でも、世代が移ったとしても、お寺という場を通じ、時空を超えて記憶を共有することも可能になります。それこそお寺という場が持つ力の真骨頂です。
伝統という「決まったかたち」は知恵の結晶
精神的に大変な中、多くのことを次々に決めていかないといけないのがお葬式です。そこに「決まったかたちがある」ということは楽です。自分が知らなくても式は進んでいき、しかも親戚等も流れを知っている。「決まったかたち」にはそれだけで価値があります。そのかたちには、過去からの知恵がつまっています。長年の先人たちの試行錯誤の結果、このようにすれば心落ち着くというかたちを、ずっとブラッシュアップし続けてきたものなのです。
また、かたちがあることは、後々の安心につながります。例えば、満中陰法要(四十九日)や百か日法要の頃には、心が落ち込む方が多いといわれています。だから、その頃に集まる場を設け、お互いに支え合う機会としているのですね。
そして、一周忌、三回忌と続いていく年回忌や、お盆やお彼岸などの季節行事もあります。これらの法要をご縁にして、亡き方のことを思い出し、改めて感謝申し上げることで、私たちの心身が整えられていきます。このような、定期的に亡き方のために集まることのできる伝統は、そのような習慣のない海外からも、グリーフケアの場として注目されています。
大いなるいのちとのつながりを感じることが葬儀の意義
生まれてくる不思議、死んでいく不思議。命は大いなる不思議です。生まれも終わりも自分の好きにはできません。何もかもを自分の好きなようにしたいと科学を発達させてきた私たちですが、自分の命は好きなようにはできないのです。「人間が全てを決める」という傲慢 を一度見直し、「人間にはどうすることもできない」ことを謙虚に見つめることも大切なことではないでしょうか。
私たちの命は、この宇宙の大いなるいのちから生まれ出て、そしてまた大いなるいのちへと還っていきます。そう考えると、葬儀はこの世の命の卒業式であるとともに、仏さまという大いなるいのちとしての誕生式でもあります。宇宙のような大いなる仏さまの力に包まれる儀式を通じ、「私の命」が「大いなるいのち」であることを実感していくことに葬儀の意義があります。だからこそ、仏教式の葬儀は亡き方の見送りにふさわしいのではないでしょうか。