葬式に行けない曖昧な喪失 ~ コロナ下で大切な人を亡くしたときの心身の整え方:前編(教西寺 住職・三宅教道)
2021.04.21
三宅教道
あなたのお話をお聞かせください。話すだけで心が軽くなる方もいらっしゃいます。気楽に世間話、ぐち悩み、ご相談をしていただけます。年齢・性別・社会的立場等関係なく、どなたにも来ていただけるようにしたいと考えています。
大切な人、近しい人を亡くしたとき、自分やまわりは、どんなことを思い、身体にどんな反応が表れてくるのか。コロナ下で大切な人を亡くしたときの心身の整え方について、前後編に分けてお話ししたいと思います。
まず前編は、私の個人的な体験についてお話しします。
伯母のお葬式に行けず、曖昧な喪失を感じる
諸行無常の世の中、新型コロナウイルスに関係なく人は命を終えていきます。いつ、どのように命の終わりを迎えるのか、自分で選ぶことはできません。私はこのコロナ下で、遠方に住む伯母を亡くしました。しかし、お葬式に行くことができず、ご本人の顔を見ることもかないませんでした。亡くなったという実感が全くありません。悲しいとか寂しいとかの感情も湧いてきません。でも、なんとなく落ち着かないし、行けなかった罪悪感の欠片のようなものを抱えているような気がしていました。
大切な人の死に直面したとき、それを実感できない、受け入れられないとは、よく聞きます。そのようなときでも、お葬式の一連の流れの中で、少しずつ向き合っていく場面があります。例えば納棺のときに故人の服を選び、遺影写真をさがしながら思い出を懐しみ、柩のふたを閉じる前に花を入れながら語りかけ、ご遺骨となられた現実に出会います。これらのことを周りの人と一緒に体験することで、少しずつ心の整理をしていきます。
しかし、お葬式に行くことなく日常生活を送っていた私は、伯母の死にきちんと向き合う時間がありませんでした。亡くなったことを実感できない「あいまいな喪失」を感じていたようです。
自分だけで伯母のお葬式。読経で少し心が落ち着く
私は、自分だけでお葬式をすることにしました。本堂で読経し、また静かに伯母を偲ぶ時間をつくりました。何年も会っていない伯母の顔、どんな声だったか、何を話されていたか、少しずつ思い出すとともに、だんだんと寂しさや感謝の気持ちが沸き上がってきました。「伯母から受け取ったものが私の中に生きている」そう思うことができる、亡き人とつながる尊い時間でした。
お経には、阿弥陀如来のおはたらきが説かれています。
「あなたを必ず極楽浄土に生まれさせよう」
「あなたを必ず仏とならせよう」
お経を読み続け、その世界観にひたりながら亡き伯母を思い出していると、亡き伯母が間違いなくお浄土で仏さまとなられたと感じることができ、私は少し安心感を覚えました。お葬式は故人との関係に区切りをつけるという意味が大きいですが、僧侶でもある私は「伯母が救われている」ことを確認したかったのだと思います。
浄土の教えでは「仏となられた方は、私を救いにこの世に還り来たる」といいます。私が伯母のところに行けなくても、仏さまとなられた伯母が私のところへ来て下さるのです。
お寺の本堂で、ご本尊阿弥陀如来さま、仏さまとなられた数多のご先祖さまに見守られながら読経することで、私はやっと伯母と会えたような気がしました。「お葬式に行けなくてごめんなさい。でも、私のところに来て下さってありがとう。」私の心は少し、整ったように思います。
南無阿弥陀仏
※後編は、皆さまの心身を整えるための方法をお話します。