煩悩 ‐ 西法寺 住職 西村達也さん(福岡県北九州市八幡西区)
2019.12.01
生きていくうえでのヒントとなるような「ことば」をお坊さんに教えていただく本シリーズ。北九州市八幡西 区の浄土真宗・西法寺 住職・西村達也さんからのご寄稿第二弾は、日常生活でもよく目にする、使う「煩悩 」についてです。
西村達也(にしむらたつや)
住職。1962年北九州市生まれ。龍谷大学文学部仏教学科真宗学専攻を’85年卒業。自坊法務の傍ら鎮西敬愛学園宗教科の非常勤講師を勤めた。’97年第十三世住職に。社会福祉法人慈恵会(済美保育園/旭ヶ丘保育園)理事長。
煩悩は何によって生まれるか?
大学に入って間もない頃、初めて煩悩 という言葉を辞書で調べました。そこには「私の身を煩 わせ、私の心を悩ませる、私の心のはたらき」とありました。もっと端的にいうと、「私を苦しめるもの、それは他でもない、私自身である」ということでしょう。
これには驚きました。そんなふうに考えたことがなかったからです。それまで、「おれを苦しめるものは、あいつや」とか、「あいつさえいなかったら、こんなことさえなかったら、おれは苦しまなくていいのに」としか、考えることができなかった私にとっては、たいへんな驚きでした。
煩悩について、親鸞 聖人のお言葉には、「人間というものは煩悩がこの身に満ち満ちて、欲も多く、怒り、腹立ち、そねみ、ねたむ心、多く、絶え間なく、死に臨 むその時にいたるまで、止まらない、消えることがない、尽きることがない」とあります。
では、煩悩は何によって生れるのか?
それは、我執 。つまり、自分の考えに固執し、自分の思い通りにしたいという、私の命の中に燃えさかる、止まることのない欲求から起こるのです。
ずいぶん前のことですが、あるおばあちゃんが、お寺に来て、それこそ、怒り腹立ちの思いのたけを、私に明かされました。何の話かというと、お嫁さんのことでした。まあこれは、古今東西、永遠のテーマでしょう。
人生の先輩に対して、若い私にはアドバイスの言葉が見つかりません。ただただ、「そうですね、そうですか、そうですね、そうですか……」何回言ったかわかりませんが、話を聞いていました。
もう30分くらいたったでしょうか。そのおばあちゃんが最後に口にされた言葉が、忘れられません。「あーあ」と溜息 をついて、「わしも我 が強いですなあ」と言ったのです。私も思わず「そうですね」とうなずいてしまいました。
他人事 ではないですね。人間は自分の我の強さで、自分を苦しめるのですね。そのおばあちゃん、自分で自分の姿に気づかれて、来た時とはまったく違い、心穏やかな表情で帰って行かれました。
自分の考えに固執すると、心の眼は閉ざされ、大切なものを見失い、幸せの中にありながら、その幸せが感じられなくなります。「煩悩」というのは、自分自身がわからず、ただ感情に振り回されて、もがいている私に、自分自身の本当の姿を気づかせてくれる教えです。
私凄く心引かれました
私ごとですが、娘が旦那様いてる中不倫をして私達の知らない間に不倫の相手の所に出て行き1年8ヶ月経ち娘とは音信不通の状態です
私は凄く悩み子育て失敗した
娘と葛藤しました。行ったらあかん仕事のしていない男に、それと男の方には離婚しているし子供2人いて
娘が何で、今も答えは見つかりません
早めに自分を取り戻し気づいて欲しいと毎日居残り願っています