海はいかなる川をも拒まず ‐ 西法寺 住職 西村達也さん(福岡県北九州市八幡西区)
2019.11.01
この世の中を生きていく上でのヒントとなるような「ことば」をお坊さんにご紹介いただく本連載。今回は北九州市八幡西 区の浄土真宗・西法寺 から、住職の西村達也さんがご登場です。
西村達也(にしむらたつや)
住職。1962年北九州市生まれ。龍谷大学文学部仏教学科真宗学専攻を’85年卒業。自坊法務の傍ら鎮西敬愛学園宗教科の非常勤講師を勤めた。’97年第十三世住職に。社会福祉法人慈恵会(済美保育園/旭ヶ丘保育園)理事長。
西村さんが選んだのは「海はいかなる川をも拒まず」ということば。娘さんの命名にまつわるエピソードとともにご紹介いただきました。
女の子には珍しい「海」と名づけた理由とは?
海にはいろいろな川が注ぎ込みます。大きな川、小さな川、曲がりくねった川、まっすぐな川。おだやかな川、激しい川、汚れた川、清らかな川。どんな川でも、海は決して拒絶しない。わけへだてなく、そのまま迎え入れてくれます。「海はいかなる川をも拒まず」。優しく温かな仏さまの心を、海にたとえた言葉です。
私の長女の名前は海 といいます。この10月に25歳になりました。その記念に寄稿します。
長女が生まれる1年ほど前、九州地区の仏教婦人会の大会が開かれました。私は参加できなかったのですが、教区の組 の仏教婦人会の担当をしていたので、参加者からお土産に大会の記念品をいただきました。月めくりの暦です。そこに「海はいかなる川をも拒まず」という言葉が書いてありました。その時はじめて見た言葉でしたが、見た瞬間に、いい言葉だなぁと思いました。直感的に、これまで聞いてきたみ 仏さまのことを端的明快に表現した言葉だと感じたのかもしれません。
それから、妻のお腹に宿ったいのちに「海ちゃん」と呼びかけるようになったのです。結局、「海」と命名しました。法名は慧海です。
「海」という女の子の名前は珍しいこともあってか、地域の方々や親類から、読みかたや命名の由来をよく聞かれました。そして多くの人から「どんな人をも受け入れる、広い心を持った人になってほしい、という意味なんでしょう」と言われました。改めて調べてみると、一般的にはそのような解釈がなされているようでした。でも私の願いはそうじゃない。ここが肝心です。
「違います!! そんな意味をこめられちゃったら、大変ですよ。そうじゃあないんです。『あなたのかけがえのない人生、どんなことがあっても、そのままのあなたを大切に迎え入れてくれる、海のようなみ 仏さまと一緒に安心して生きていきなさい。そして願わくは、そのみ 仏さまに育てられて、少しでも周りの人を大事に受け止めていける人になってくれればありがたい』ということなんです。順番が違います」当時、こんなふうに何度も同じ説明をしたことを思い出します。
浄土真宗において、阿弥陀 さまは生きかたを説いてはおられません。「海のような広い心の人に」なんて、人はなかなかなれるものではありませんよね。「できない私」がまず居る。だからこそ、こうして方向を示すようなことば、教えがあるわけです。
まわりの人から問われたことで、私自身も名に込めた願いがより明確になったのかもしれません。私が娘に「いい名前やなぁ、誰がつけたんかねぇ」と訊きますと、「お父さんやろう」と言ってくれる。娘いわく、4年ほど前の得度 がきっかけで仏教の勉強をするようになってから、一層意味を噛みしめるようになり、もっともっと自分の名前が好きになったということです。よかったなぁと思っています。