看仏連携がひらく可能性。患者・仏教者・医療者の「三方よし」をめざして
2020.01.29
1/18(土)、大阪市天王寺区にある大蓮寺 は熱気に包まれていました。冬にもかかわらず、会場には冷房が入れられたほど。
開催されたのは「看仏 連携<看護と仏教>地域包括ケア寺院の可能性を考える」という催し。僧侶と看護・介護関係者、約100名が大蓮寺に集いました。
昨年、芸人の小藪 さんが起用されたポスターが騒動となったことをきっかけに、注目された「人生会議」。「人生会議」は、ACP(アドバンス・ケア・プランニング)の愛称です。ACPとは、もしものときのために「自らが望む人生の最終段階における医療・ケアについて、前もって考え、医療・ケアチーム等と繰り返し話し合い共有する取組」のことです(厚生労働省HPより)。
ACPにはさまざまな業種や団体が関わります。その中でも「僧侶と看護者が連携し、多死社会の看取 りにどう関わっていくか」という問題意識から、この催しが企画されたのでした。
合計8名の話者による、約4時間のトーク・セッション。とても濃密な内容で、すべてをご紹介することはかないませんが、いち参加者としての視点から、当日の様子をかいつまんでお伝えします。
看護と仏教のバトンパスは「投げ渡し」状態。僧侶から積極的に医療・介護現場に関わろう
冒頭に主催者の1人である大蓮寺住職・秋田 光彦 さんから、「なぜ看仏連携なのか」ということが語られました。
秋田さんは、ACP(人生会議)によって、終末期の基軸が、病院から在宅へ、施設から地域(例:地域包括支援)へ、治療から対話へと、大きく転換したことを評価。歴史・文化等の多様な資源をもち、地域に根ざしたお寺・僧侶の役割が増すことへの期待を語りました。
続いて、僧侶からの現状報告と問題提起がありました。登壇したのは、東海林 良昌 (浄土宗雲上寺 副住職・浄土宗総合研究所研究員)さんと、三浦 紀夫 (真宗大谷派僧侶・NPO法人ビハーラ21事務局長)さん。
東海林さんからは、お寺に介護の悩みを持つ方などが集まり、介護について情報交換ができる「介護者カフェ」という取り組みについてご紹介がありました。実際に介護経験のある方の2割が「(被介護者に)殺意を覚えたことがある」という衝撃的なデータも示される中、「地域の中で『助けて』と言える場所を増やしたい。お寺が、文字通り地域の『駆け込み寺』になってほしい」という言葉が印象的でした。
三浦さんは百貨店で仏事相談員として従事したのち、僧侶に転身し、現在はさまざまな医療・介護福祉施設で看取りに従事しています。数々の現場を経験してきた立場から、看仏連携とは「終末期ケア(看護)から、喪の作業(仏事)へのバトンパス」であると表現しました。現在はそのバトンパスが丁寧な手渡しではなく「投げ渡し」になってしまっており、僧侶も医療・介護従事者も、お互いにもっと興味を持ち、バトンの受け渡しエリアである「テークオーバーゾーン」を整える必要があると三浦さんは言います。特に、医療者と患者家族との話し合いの場に、僧侶が積極的に関わっていく必要性を強調しました。
医療現場は「問題解決志向」。「未解決」をも肯定できるお寺の力に期待
次に登壇したのは、看取りに関わる専門家である志方 優子 (JCHO大阪病院がん看護専門看護師)さん。
志方さんは、まず医療者による「痛み」の考えかたについて、概念図を示しながらわかりやすく解説してくれました。いわゆる身体の痛みだけでなく、トータルな苦痛を「全人的苦痛」としてとらえますが、中でも「スピリチュアルペイン」への対応は難しく、医療現場でも葛藤を続けているそうです。
志方さんは、長年の現場経験を通じ、スピリチュアルペインは必ずしも解決する必要があるのだろうかという疑問があるそうです。患者さんが人生の意味を見出したり、死生観への悩みに向き合うための手助けが、医療現場では不慣れな分野であり、十分にできていないのが現状とのことでした。問題解決志向が強い医療現場の目線からは、目の前の物事をありのままとして受け止め、「急いで問題解決をしなくても良い」と保留できるお寺の場の力に、とても可能性を感じているそうです。また、日々の業務で精神的に行き詰まることも多い看護師の話を、僧侶に聞いてほしいという意見も印象的でした。
続いて登壇したのは鍋島 直樹 (龍谷大学教授・臨床宗教師研修主任)さん。鍋島さんは、臨床宗教師として、看取りに関わる宗教者を育成する立場でもあります。ご自身が難病の母を看取られた経験、そして仏教研究者としての豊富な見識に基づき、一休上人の「骸骨」、親鸞 聖人とのその妻・恵信尼 のやり取り等から、日本で紡がれてきた死生観を語られました。
その上で、看取りに携わる仏教者について「仏教者くずかご論」という考えを提示されました。これは、仏教者は患者さんの声を傾聴し、くずかごのように全てを受け止める存在であれ、という考えです。そんな仏教者が増えることは素晴らしいことだと思いますが、「くずかご」である仏教者も人間ですし、その仏教者を受け止めるための「くずかご」(ある種のセルフケア)はどこにあるのだろうか、信仰だけでは片づけられないのではという疑問が、いち参加者として私には感じられました。
看仏連携実践の場。訪問看護ステーション「さっとさんが願生寺 」をスタート
その後は、チャプレン(臨床宗教・仏教師)として、病院など臨床現場で活動している大河内 大博 (浄土宗願生寺住職)さんからのプレゼンがありました。
今までの話者の内容も受けながら、人口減少・少子高齢化をもとより、技術革新と多文化・多国籍社会などの要素が強まってくる日本社会の長期的変化において「宗教性の再覚醒」が日本人に生起するだろうというお話が印象的でした。5G・IoT等の技術革新でスマートシティ化が進む中で、地域の資源である「お寺の価値」の表現が不可欠となり、「地域のなかの宗教性」ということが見直されるという点に加え、多文化・多国籍社会によって自分のルーツが意識されとともに、他宗教との共生という意味で自らのの宗教的背景も意識されていくという内容でした。概念論ではなく、様々な臨床現場で実践を重ねられている大河内さんだからこその、確かな洞察に基づくものと感じました。
そして、大河内さんの実践の場として、医療法人日翔会 と連携した訪問看護ステーション「さっとさんが願生寺」を開設することをここで発表。新たな看仏連携の実践的取り組みがこの日に発表されたことは、意義あるものと思います。
具体的なアクションに導くには? ワークショップで共有された大きな期待と課題
大河内さんのプレゼンの後、齋藤 佳津子 (浄土宗應典院 主査)さんがかじ取り役となり、ワークショップを行いました。参加者が10名ほどのグループに分かれ、「看仏連携によってできること」を話し合います。
ここまで約3時間近くにわたる大量の情報にお腹いっぱいで、正直なところ、参加者としては咀嚼しきれていない状況でした。まずは短時間でも語ってみることで、咀嚼の時間が得られたのはありがたいことでした。私の参加したグループで印象的だったのは、以下のような意見です。
・「街づくり」のための訪問看護ステーション。地域には自助・共助が求められるが、今は地域の世話役が現れにくい。訪問看護ステーションがその一助になればいい(医療法人日翔会理事長・渡辺 克哉 さん)
・宗教も介護も目に見えないものを提供している。宗教者と介護者が目に見えないものを共有する難しさを、乗り越えていくプロセスや場が必要(看護師)
・医療は治療に、介護は人生に関わるもの。身体を治した後、どう生きていくの?という問いに医療現場は答えられない(看護師)
看仏連携への期待感は大きいです。そのための一歩を踏み出す、具体的なアクションに導いてくための事例作りが、たくさん必要な段階だと感じました。
看仏連携は、聖徳太子の「四箇院」の現代版!
会の最後には、もう一人の主催者である河野 秀一 (㈱サフィール代表)さんより、看仏連携への今後の提言がありました。
スライドにある四箇院 とは、聖徳太子が四天王寺を創建したさいに制定したとされる、敬田院 、施薬院 、療病院 、悲田院 の4つを指します。
敬田院は寺院そのものであり、施薬院と療病院は薬局・病院にあたり、悲田院は病者や身寄りのない老人などのための社会福祉施設にあたります。まさに、お寺本来のあり方を、現代に復活させようという提言です。四天王寺は偶然にも会場である大蓮寺近くにあり、地理的な文脈からも親和性を感じる内容でした。
看仏連携の大きな可能性を感じさせる「歴史的な日」
会を終えると、少なくない看護・介護関係者から「今日は歴史的な日」という言葉が出てきました。これは、お寺という地域資源への大きな期待の表れでもあると感じます。看仏連携が具体的に深化していく中で、いつか本会について「あの日から始まったね」と語られることもあるかもしれません。
お寺には詳しいものの、いわゆる「お寺の人」ではない一般人として、そしてお寺と医療関係には素人ながら、様々な業界・組織に関するコンサルティングについてはそれなりに知識と経験がある立場から、感じたことや浮かんだアイデアを述べてみます。
関西から始まる必然性
前提として、関西は首都圏と比べて供養文化の分厚い蓄積を感じています。月参りをはじめ、様々な営み・行事が行われ、お寺というものの存在感は首都圏よりも相対的には大きいものがあります。9名に1名が無縁仏として死んでいると言われる大阪において、仏教者としての使命感から今回のような取り組みが真っ先に生起してくることは、ある種の必然性があると感じます。
ローカル課題解決に寄与するお寺への期待
日本社会が劇的な構造変化を迎えていく中で、これからの社会課題は地域によって多様化し、課題解決にもよりローカルな対応が求められます。その点では、今までもこれからも地域とずっと歩み続けるお寺は、さまざまな資源や信頼の提供という点から、ローカル課題の解決において、従来以上に期待される役割が増していくでしょう。
ある僧侶が「新しい取り組みを始めると、あのお寺は檀家を増やそうとしていると言われ、積極的に取り組みたくても慎重さが求められる。看護側からもお寺を地域にどんどん引っ張り出すきっかけを作ってほしい」と言っていました。これはお寺側の率直な気持ちだと感じます。
今まで数えきれないほど語られてきている「お寺の可能性」。いつまでも可能性にとどめないため、お寺だけでなく、さまざまな関係者が積極的に動き、お寺の外堀をどんどん埋めて、お寺を地域に引っ張り出す努力もあわせて求められます。当日の熱量を見ると、その行動力は十分に潜在していると感じますし、看仏連携によってお寺の可能性が具体的な形として引き出されてくることを願ってやみません。
「月参り」の復権
首都圏で育った私は「月参り」という営み・文化に衝撃を受けました。現代において、多くの家の中に自然に入ることのできる信頼関係はとても貴重です。お寺が歴史的に培ってきたこの信頼こそ、現代社会の孤独・孤立によって生起する様々な社会課題に寄与できると信じています。
現在は郵便局をはじめ様々な見守りサービスが登場してきていますが、月参りこそ最高の見守りサービスではないでしょうか。
・月に1回程度の訪問による定期的コミュニケーション
・お経の後にお茶を飲んでしばし歓談。近況交換をしながら、家族や室内の変化などを感じる
・死期が近い方には、お経やお話しを通じて、死後の世界への心の準備をはぐくむ
独居老人が増える多死社会にこそ、孤立を防ぐ月参りという営みは、最高のソリューションではないかと感じるのです。私も老人になったら、自分にとっての「まいてら寺院」にお世話になり、死後の旅立ちを支えてほしいと思います。
近年は各地で月参りが減ってきていますが、長年にわたって日本社会が培ってきた月参りという営みを改めて見直すべきではないかと感じます。
また、月参りに着目するのは、今後の看仏連携では様々な連携のかたちが登場してくるでしょうが、それに対応できるお寺は限られると考えるからです。それよりも、月参りを含めたお寺の日常的な営みに、現代の社会課題の視点から新たな意味合いを付与し、その役割を積極的に担ってもらうほうが持続的に長続きすると思うのです。
お寺への「過度」な期待によって新たな仕組みを構築し、仕組みばかりが先行するのではなく、歴史的な時間の中でお寺が日常的に営んでいくものに、現代的な意味を付与していく視点と発想が重要ではないかと感じます。
以上とても長くなりましたが、濃密な一日を通じて考えたことを共有させていただきました。
過度な期待は失望にも変わります。期待よりも、具体的で地道な取り組みをどれだけ重ねていけるかというところに未来が拓けてくると感じました。今後の看仏連携の大いなる発展を心から願ってやみませんし、まいてらでもさまざまな取り組みを随時レポートしていきたいと思います。