伝運慶の仏像がわが町に⁉ 地域を見守る”四天さま”物語(勝覚寺住職・小杉秀文)
2024.03.04
千葉県山武市にある勝覚寺(真言宗智山派)は”四天さま”の愛称で地域の人たちに親しまれています。呼び名の由来は、日本を代表する仏師・運慶作と伝えられる四天王像です。堂内に居並ぶお像の迫力は圧巻で、小杉秀文住職自身が「こんなに素晴らしいご尊像が、この田舎町に存在し続けていることが信じられない」と語るほどです。800年以上にわたって、変わらぬ場所から人々の生活を見守り、いまも地域に根を張り続ける四天さまの物語を、小杉住職が語ります。
小杉秀文(こすぎしゅうぶん)
昭和43年勝覚寺に長男として生まれる。地元の成東高校を卒業して、大正大学へと進み真言宗の教えを学ぶ。 京都の狸谷不動院にて修験道を学び、30年来、奈良の大峯山にて修行を続ける。
「四天さま」で親しまれる伝運慶のご尊像
947年創建の勝覚寺は、千年を超える歴史を持つお寺です。ご本尊は、インドの伝説の仏師・毘首羯磨の手によるとされている釈迦如来坐像。弘法大師空海が日本に持ち帰ったものが、勝覚寺の本尊として祀られるようになったと言われています。
そして、その釈迦如来さまを守るべく四隅にそびえ立つのが、大仏師・運慶が彫ったと伝わる四天王像です。2メートルを超えるお像の迫力は、圧巻のひと言に尽きます。
運慶は鎌倉時代に生きた人で、四天さまもその時代に勝覚寺に迎えられましたから、800年も前までさかのぼります。
特筆すべきは、四天さまが勝覚寺へ運ばれた際の伝説が地域の言い伝えとして息づき、いまもそれが地名に影響を与えていることです。
鎌倉の地で運慶が彫り上げた4体のお像は、海を漂って九十九里浜に流れ着いたとされていますが、流れ着いた場所はいまでも「四天木」と呼ばれています。
打ち上げられた四天さまは、地元の漁民たちに「勝覚寺の釈迦如来さまをお守りしたい」と伝えられ、漁民たちの手によって勝覚寺まで運ばれることとなります。四天木からお寺までは約15キロ、まともに歩いても3時間はかかる距離ですが、その間にあるさまざまな場所にも、四天さまにちなんだ地名がいまでも見られます。
あまりの重さにみんなの顔が青ざめた場所が「粟生」、担ぐ肩を入れ替えた場所が「片貝」、あまりの重さにさじを投げて、四天さまをもとあった場所に戻すかどうか悩んだ「本須賀」など、山武市や九十九里市には、四天王像を勝覚寺まで運んだ時の伝承が、いまも地名となってこの地域に根を張っているのです。
800年続く四天さまのご利益
四天さまのお役目は、お堂の中央におられる釈迦如来さまの守護。ところが、その大きさや迫力あるお姿から、やがて四天さま自身も信仰の対象となります。800年もの長い間、ずっとこの場にあり続け、この土地に住むたくさんの人たちの愚痴を聞き、怒りを受けとめ、涙をぬぐってこられたのです。
定期的に課外授業や写生大会に訪れてくれる小学生たちは、四天さまが東西南北を守る四神「青龍」「朱雀」「白虎」「玄武」でもあることを伝えると、「おおー」と驚きの声を上げらながら、目を丸くします。『デジモン』というゲームの中のキャラクターで四神が登場するのだそうです。神話や民話の要素を取り入れながら最先端のカルチャーが作られ、伝承していくことを示しています。
毘首羯磨や運慶のような歴史的な仏師による仏像がこの田舎町にあり、千年以上もの間、尊敬を集め続けている、これは地域の大きな誇りだと感じています。
旧暦の2月15日(涅槃会:お釈迦さまのご命日)と8月2日は勝覚寺の御縁日で、この日は大勢の方にご利益をお受け頂きたく釈迦堂を御開帳し、御札を授与しています。
2024年の春のご縁日は、3月24日の日曜日です。とても美味しくて、ご利益がある涅槃団子もふるまっていますので、どうぞ勝覚寺まで足を運んで、壮大なお像を目の前にして、仏さまとのご縁を結んでもらえればと思います。