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供養は「遺志を引き継ぐバトンリレー」(足立信行・T-sousai代表)【死に方のココロ構え⑧】

2022.07.14

足立信行(あだちしんぎょう)

株式会社 T-sousai 代表取締役社長。1982年、京都府生まれ。在家の家に生まれる。18 歳の時に高野山で僧侶になることを決意。2005年高野山大学人文学部密教学科卒業。2006年高野山専修学院卒業。2007年高野山金剛峰寺布教研修生修了。高野山で修行をする中で僧侶や寺院の役割を考え、一度下山。葬儀の重要性に気づき、2008年 大手互助会系の葬儀会社に入社。葬儀の担当者となり、年間約 120 件の葬儀を手掛ける。2012 年IT 企業に入社。エンジニアとして活動。2017年、僧侶と葬儀会社の担当という経験から、お互いが遺族や故人のために協力し祈りの場所として本堂などで葬儀をあげ、安価で心あるお寺葬の構想を企画。葬儀の告知、WEB、導入などから実施、施行までをワンストップできる株式会社 T-sousai を創業し、現職。

T-sousaiホームページ

※前回(大切なことは歩み寄り。「僧侶は横柄 5割」に思うこと)はこちら

安倍元総理のご逝去という衝撃

 7月8日(金)、参院選の遊説中に安倍元総理が凶弾にたおれるという、とても痛ましい事件が起こりました。白昼に起こったこの事件に多くの方々が衝撃を受けられたと推察いたします。

 本件の犯人に対し、深い憤りを感じたのは私のみではなかったはずです。思想や立場の違いはあれど、暴力による現状の変更は許されません。
 事件の背景はこれから明らかになっていくと思いますが、浄土宗ともご縁の深い安倍元総理が、まずは無事に極楽浄土ごくらくじようどに往生されますことを心からお祈り申し上げます。一僧侶としても、ご供養の気持ちをもって、これからも時々に安倍元総理のことを思い出していきます。

供養の本質は「忘れること」なのか?

 常々考えていることではありますが、今回の事件に接して、僧侶が亡き人のために読経どきようすることはどういう意味があるのかについて改めて考えさせられました。宗派によって考え方やく先の違い、言葉の表現の違いはあるものの、亡き人に対してねんごろに読経することは変わりのないことです。では、なぜ読経するのかと言えば、当然ですが供養(往生)のためです。

 では供養とは何なのかと問われれば僧侶によって答えはそれぞれです。
 大学で修行していた頃は、「供養とは死者を忘れること」だと教わりました。つまり、いつまでも死の悲しみを覚えていると辛いので、読経によってその辛さを忘れさせる、ということです。あるいは、「死者への想いを断ち切るのが読経である」とも教わりました。
 そういった伝統的な考えは供養のひとつの側面としてあると思います。いつまでも悲嘆のただ中にいることは大変ですし、精神的にも辛いもの。だからいっそ忘れた方がいい。そのような考えから、「供養=忘れること」という点にも一理あります。

 しかし、果たして本当にそうなのでしょうか。
 私はかつて働いていた会社の先輩を自死で失うという経験をしました。今からもう10年以上も前のことです。亡くなる2日前くらいにその先輩と仲良く話していたにもかかわらず、突然の出来事でした。私を可愛がっていただいた先輩が亡くなり、とても辛くて悲しくてやりきれない想いにかられました。

 それから10年以上経った現在、先輩の命日には昔の同僚達と会い、供養という名の飲み会を実施しております。
 先輩を忘れることはできません。先輩のおかげで今の自分がある。先輩を忘れることは今の自分を大きく否定することになります。今でもその飲み会では先輩との思い出話やエピソードなどを話しています。

 そんなことを10年以上続けていると、先輩の想いや考え、やりたかったことを不思議と思い出します。先輩は映画やアニメが好きだったので、先輩が観ることができなかった映画やアニメを観て、墓前で報告することもしばしばあります。先輩の記憶は私の中で生き続けていると実感します。忘れることとは真逆です。

供養は本当に忘れることなのでしょうか
供養は本当に忘れることなのでしょうか?

「亡き人を思い出すシステム」としての供養

 日本仏教の法事や回忌などは「死者を忘れるシステム」というよりも、「思い出すシステム」の意味合いが強いと感じます。初七日から始まり、四十九日、百ヶ日、一周忌など。つまり「供養=忘れること」ではなく、「供養=思い出すこと・忘れないこと」ではないかと強く思います。

 そう考えてみると、供養は忘れることではなく、「受容(受け容れること)」が正しい解釈と言えます。人が亡くなったことを否定するのではなく、その事実を受け容れ、向き合い、そこから亡き人を忘れないように思い出すことが供養の本質ではないでしょうか。亡き人を忘れずに思い出すことを習慣(=システム)にしながら、亡き人の遺志に思いをめぐらし、その遺志を自分なりに引き継いでいくことが、供養の本旨なのではないか。私にはそう思えるのです。

供養は遺志を引き継ぐバトンリレー

 以前に『千の風になって』という歌が流行りました。冒頭の「お墓に私はいない」という歌詞がセンセーショナルでしたので、宗教界からはかなり批判がありました。

 しかし、歌詞をよく読んでみると「千の風になってあなたのそばにいる」という言葉が出てきます。私なりに要約しますと「お墓にのみ私がいるわけではない。千の風になっていつでもあなたといます」という、亡き人と共に歩み続けることが、この歌の伝えたかったことなのではないでしょうか。
 亡き人と共に人生を歩んでいく。永遠に忘れず、亡き人の遺志を引き継いで生きていく。そんな精神性を歌い上げたものだと感じます。

 今回の痛ましい事件を通じて、安部元総理の遺志を多くの人が受け継いでいくでしょう。
 そして大切なことは、社会的な地位のある方の遺志ばかりではなく、日常で身近にいた大切な人の遺志を受け継いで生きていくこと。それは誰でもできることです。いつかは、自分の死後にも、誰かが自分の遺志を受け継いでいってくれるかもしれません。そう考えると、供養とは遺志を引き継ぐバトンリレーであるとも言えます。

亡き人からの想いを引き継いでいくことも大切な供養
亡き人の想いを大切に引き継いでいくことも供養

 そろそろお盆がやってきます。一年で最も亡き人の存在感が高まる季節です。みなさんは、どのような遺志を継いで生きていますか?そんなことに思いをめぐらしながらお盆を過ごされるのも良いかもしれませんね。
 最後に、安倍元総理のご逝去に心からお悔やみ申し上げます。

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