供養の本来の意味とは?仏さまを供養することで、あなたも供養されている⁉(西岸寺住職・中西無量)
2023.09.12
私たちは、お寺やお墓、お仏壇で手を合わせて、亡くなった人のことを「供養」しますが、この供養って、いったいどういうことなのでしょうか?
供養の本来の意味は、
本来は仏や菩薩、諸天などの霊的存在に対して、尊敬や感謝の気持ちを表すために行われる行為です。
この言葉は、サンスクリット語で「尊敬」を意味します。
古来から現代に至るまで、供養はさまざまな形で行われてきましたが、特に亡くなった人々に対するものが一般的です。
供養を通じて、敬意や感謝の気持ちを表し、亡くなった人々の魂が安らかに成仏することを願うという目的が共有されています。
今回はこの「供養」について
より深く意味を教えて頂くため
西岸寺の中西無量住職(福岡県・真宗大谷派)に、まいてら編集部・玉川が伺いました。
中西 無量(なかにし むりょう)
1974年田川市生まれ。2002年大谷大学大学院博士課程(満期退学)の後、真宗大谷派(東本願寺)職員として、20年ほど京都や九州各地で勤務。途中、宗派職員と西岸寺の「二足のわらじ」生活を送るも、2022年~西岸寺に専従。
供養は循環している
– 「亡き人を供養する」「ご先祖さまを供養する」などとよく言いますが、供養ってどんな状態のことを指すのでしょうか?
そうですね。もっとも大切なのは、供養の主体はお坊さんではなく、「あなた」だということ。葬儀や法事の席では、お坊さんのお経をただそばで聞いているだけかもしれませんが、供養の主人公はあくまであなた自身、お坊さんはその伴走者でしかありません。
– 供養というのは、亡き人の冥福を祈ること、で合っていますか?
私、浄土真宗の僧侶なので「冥福」が気になりますが(笑)、それはさておき半分正しくて、でも半分物足りないというところでしょうか。まいてら代表の井出悦郎さんの著書『これからの供養のかたち』の中でも書かれていますが、供養は「供給資養」の略語だと言われており、双方向の供養を意味します。
– 双方向?
私の属する浄土真宗の場合、阿弥陀如来さまという仏さまを大切にしますが、如来さまへの供養を「供給」、如来さまからの供養を「資養」と言い換えてもいいでしょう。
– へえ。仏さまから私たちへの供養、というものもあるのですか?
はい。供養と聞くと、私たちから仏さまやご先祖さまへといった、一方向的な供養ばかりを連想しがちです。ローソクやお線香やお花のお供えも、念仏や読経も、すべてそうですよね。でもそれだけではなく、仏さまから慈悲が注がれているという、こちらに向けられた供養というものもまたあるのです。
– 仏さまからの慈悲。なんだかとてもありがたいですね。
逆に浄土真宗では、仏さまから向けられる供養の面が強調されすぎているところがあります。私たちはすでに阿弥陀如来さまに救われているから、こちらからは何も供養をしなくてもいいんだと。でもそれはやはり一方向的でしかない。双方向の供養があって、はじめて心が満たされるのではないでしょうか。
如来とは、先人たちが“よりどころ”にしてきた智慧の結晶
– 中西さんは、法事や葬儀でもこの冊子を用いて、供養についてお話しするのですよね。
はい。まずご自身を「私」の位置に置いてもらいます。
– 点線の向こうが「浄土」なのですね。私から浄土に、紫の矢印が向けられています。
「礼拝、念仏、お勤め、焼香」などを通じた、私たちから仏さま、ご先祖さまへの供養を表しています。
– 一方で、赤い矢印は「仏事(仏さまの仕事)」としてこちらに向けられていますが、「如来」と「諸仏」とは、どういった存在なのですか?
如来とはご本尊のこと。その宗派が最も大切にする仏さまのことで、お寺の本堂でも家のお仏壇の中でも、必ず中心に祀られています。浄土真宗のご本尊は阿弥陀如来さまですが、私は如来を「先人たちが生前“よりどころ”にし、私たちに遺してくれた智慧の結晶」だとお伝えしています。
– 如来さまは、智慧の結晶?
はい。ここで言う智慧とは、人間がこの世間で大事にしている価値観を超えたもののことです。たとえば、何が善で何が悪だとか、何が損で何が得かなど。そのような人間が囚われがちな世俗の価値観を超えるもっと大きな仏さまのはたらきというものがあって、それが目に見える形で結晶化したのが、如来さまなのです。
– 少し、むずかしいですね。
たとえば、世間的には「長生きは良いことだ」と考えられていますよね。
– はい。
でも、長生きをすれば近しい方とのお別れ(死別)の悲しみ・苦しみは増えます。もっと言えば、いままさに息を引き取ろうとする人にとってこの価値観は意味を失っていきますよね。
– きっとそうですね。
こうしたことはインスタントに「分かった」とはいきません。人類の長い歴史の中で磨き上げられてきた経験知であって、私たちはそこに思いを致すことで、今は亡き故人と出会い直したり、自らの死と向き合ったりできるのだと思うのです。そのようにして培われた智慧、大いなるはたらきを、如来さまというお方が表してくれているのだと思います。
身のまわりにいる“諸仏”たち
– たしかに。命や生死の現場に近ければ近いほど、世俗の価値観を超えた大いなるはたらきが必要となってくるような気がします。
しかもそうしたことは、普段平凡に生きているだけではなかなか気づけませんが、そこで気づきを与えて下さるのが、私たちの身のまわりにいる先人たちです。こうした人たちのことを、「諸仏」と呼んでいます。
– 供養することの大切さや、仏さまの智慧に気づくきっかけを与えてくれる人たちのことですね。
そうです。私の場合、両親や祖父母、ご門徒さまといった私を囲んで下さる人たち。さらには浄土真宗を開かれた親鸞聖人や、仏教を開かれたお釈迦さまも大切な先人、つまり諸仏です。こうした人たちがいて下さったからこそ、いま私はこうして僧侶としていられます。
– 私の場合、祖母はまさに諸仏です。幼いころ、祖母の家に遊びに行くとお仏壇に必ずおこづかいが置いてあって、それ目当てに手を合わせる習慣が付きました(笑)
おばあさんは、苦労の多い人生を送る中で幾度となく如来さま、そして諸仏(今はなきあの人)を想ってお仏壇に座り、時には涙を流しながら“よりどころ”にしてこられたんでしょうね。だからこそ、可愛い玉川さんにも「人生のよりどころを持ってほしい。自分が亡くなった後もここで会えるから」と、玉川さんをお仏壇の前へ連れてきてくださったんだと思います。まさに、玉川さんのことを生きながらに供養されていたのですよ。ちなみに、お仏壇に手を合わせる時、正面に座らされたのではないですか?
– はい、座布団の上にちょこんと。その横におばあちゃんが座ってくれていました。
ですよね、それは供養の主人公が玉川さんで、伴走者がおばあさんであると、私には映ります。今は亡きおばあさんは、玉川さんにとって「諸仏」そのものですよ。
– 主人公と伴走者! 冒頭の話につながりましたね!
供養は、双方向に行き交い、そして循環している。このことを身体中で感じながら日々を生活するだけで、心の平穏と充足がもたらされますよ。
– きっと、それを日々感じられる場所が、お寺であり、お仏壇なのですね。
そうですね。時には、心を静かに落ち着けて、お寺に、お仏壇に、手を合わせてもらいたいものです。そして、お坊さんは供養のサポートをする伴走者です。分からないことがあった時、すぐそばに何でも話せるお坊さんがいれば、これは大変心強いです。
– 田川はいいですね。こんなすてきな供養の伴走者がおられるのですから(笑)
ご門徒さまや地域の方々にそう言っていただけるよう、日々精進していきます。
日田の西岸寺もよろしくお願いします♀️