信をば一念に生まると信じ 行をば一形に励むべし – 善福寺 住職 桂浄薫さん (奈良県天理市)
2016.07.06
記念すべき第一回は浄土宗のお坊さんが登場
まいてら新聞読者のみなさま、『お坊さんと味わうことばの世界』編集・構成担当の小出遥子です。
『お坊さんと味わうことばの世界』は、まいてらにおける門前掲示板です。今回から隔週でお坊さんにご登場いただき、思い入れのある「ことば」について語っていただきます。ことばの端々からにじみ出る仏教の豊かさ、そしてお坊さんそれぞれのお人柄を味わっていただけるとうれしいです。ぜひ、お楽しみくださいませ!
記念すべき第一回目は、奈良県天理市の浄土宗・善福寺住職の桂浄薫さんにご登場いただきました。それではさっそくお願いいたします。
人間に求められる究極の姿
桂浄薫 (かつらじょうくん)
昭和52年、善福寺に次男として生まれる。平成27年から善福寺住職。 得意のIT技術を活かし、地域・年齢幅広く仏教を伝える。 奈良高校卒業、大阪府立大学卒業、ソニー株式会社ではパソコンのサポート部門に従事。 退職後の平成19年、総本山知恩院で伝宗伝戒道場を満行。総本山知恩院布教師。
みなさん、こんにちは。桂浄薫と申します。今回は浄土宗の開祖である法然上人のおことばをご紹介させていただきます。
「信をば一念に生まると信じ 行をば一形に励むべし」(『法然上人行状絵図』)
簡単に申しますと、「一回のお念仏で極楽往生(※1)できると心に信じ、しかし、お念仏(※2)の修行は一生涯続けていこう」という意味になります。
浄土教の経典には、「一回のお念仏で往生がかなうだけの功徳をいただける」という記述があります。けれども、決して、一回称えればおしまい、ということにはなりません。智慧と慈悲の結晶であるお念仏を私たちにご用意くださった阿弥陀さまへのご恩を忘れず、お念仏のみ教えに出会えたご縁をありがたく受け止め、ただひたすらにお念仏を称える。そして、お念仏を称えようと決意した瞬間から、人生を終える瞬間まで、一心に修行(お念仏)を続ける。それこそが人間に求められる究極の姿なのではないか―― そんな風に、法然上人はおっしゃるのです。
※1 極楽往生 – 死後、阿弥陀如来の国(西方浄土)に生まれ変わること
※2 お念仏 – 「南無阿弥陀仏」と、阿弥陀如来の名前をとなえること
一僧侶、一念仏者として、恥ずかしくない生き方を
現在、私は、「おてらおやつクラブ」(お寺にいただくさまざまな「おそなえもの」を、仏さまからの「おさがり」として頂戴し、支援団体の協力のもと、経済的に困難な状況にあるご家庭へ「おすそわけ」する活動)の輪を広げるため、全国を飛び回っております。
「おそなえもの」は、本来、仏さまが頂戴するものです。それを我々が受け取って、「おすそわけ」をさせていただくわけです。しかし、私自身、それを預かるに足るお坊さんであるのか、職業としてやってないか、真実の信仰はあるのか……。そういった点を反省することは、決して忘れてはなりません。そうでないと、この活動は、「ちょっといいことをしている」という自己満足になりかねませんから……。
そんなとき、「信をば一念に生まると信じ 行をば一形に励むべし」という法然上人のことばを思い浮かべます。ついついお念仏を怠けてしまう私ですし、現代人の多くが「一回のお念仏でいいなら、一生涯称える必要はない」と考えるでしょう。しかし本来どんな修行でも一回でOKというものはなく、繰り返し勤めることが大切です。自らの信仰を確かめるためにも日々のお念仏が欠かせませんし、それによって一つのお念仏の有り難さが実感されてきます。そんな信仰生活から、一僧侶、一念仏者として恥ずかしくない生き方が生じてくると考えています。
生涯一凡夫。だからこそ……
現世においては、人間は決して「仏さま」になれず、生涯「凡夫(※3)」の身に甘んじなくてはいけないと浄土宗では教えます。たとえ、素晴らしい信心を得たと思っても、それは一時のこと。次の瞬間には煩悩に覆われて信心は霞んでしまう。それが、私たち人間の悲しい性です。
凡夫である私たちには、100点満点の理想的な信心を持つことも、完璧な修行と実践することも到底できません。だからこそ、「信心」と「修行」とを合わせ、その両方に励んでいくことが大切なんですね。仏さまのみ教えを信じてお念仏を称えていくとさらに信心が深まる。信心が深まると一回一回のお念仏もまたさらに有り難くなる。そういう風に信心とお念仏が車の両輪のように互いを励まし合っていく。そうして、徐々に信仰の螺旋階段を上るようにして、みなさんとともに仏道を歩んでいけたら、と思います。
※3 凡夫 – 煩悩にとらわれて迷いから抜け出すことのできない人間のこと
とても有難い言葉です
心に落ちました