布施行について(宝泉寺住職・伊藤信道)
投稿日:2026.03.06 | 更新日:2026.03.18
布施とは金銭や物品の施しだけではありません。日常の何気ない行為の中にも、仏教の教えは息づいています。本稿では、無財の七施の教えを手がかりに、現代社会の中で布施をどう実践していくのかを伊藤信道住職の経験とともに考えます。

伊藤信道(いとうしんどう)
1955年(昭和30年)津島市生まれ。龍谷大学文学部仏教学科卒。大学では陸上競技部。アーユス仏教国際協力ネットワークや名古屋NGOセンター創立に関わりました。また、僧侶育成機関「宗学院」院長を勤めます。
布施とは何か ― 仏教における意味
布施は、仏教での大切な徳目の一つです。布施はダーナ(dāna)とも言います。ダーナとは「与える」とか「支援する」という意味で、ダーナを語源にする言葉は「旦那」とも言われています。つまり、パトロンのように、相手の生活を支援したり面倒を見る意味として用いられています。
血液・臓器などの提供者ことを英語ではドナー(donor)と呼びますが、これも寄贈者・施主と語源が一緒であると言われています。
布施は、実社会の中では、僧侶への施しのことを意味されがちですが、相手への優しい言葉も、和らいだ笑顔も、電車の座席を譲ることも、困難に直面している人に手を差し伸べるのも、相手への布施となります。ですから、非常に広範囲な行いが布施となります。
財産がなくてもできる布施
「無財の七施」という布施があります。財産がなくても行える7つの布施のことです。
・眼施(げんせ):優しい眼差しをもって相手に接すること。そうすると、周囲の雰囲気が明るくなっていきます。
・和顔悦色施(わげんえっしょくせ):底抜けに優しい笑顔で相手に接していくこと。むすっとした顔よりは、笑顔の方が心が安らぎます。
・言辞施(ごんじせ):思いやりのある言葉を相手にかけること。一番基本的な言葉は「おはよう」「こんにちは」「ありがとう」なのでしょう。
・身施(しんせ):身体を使って、他人や社会のために奉仕すること。困っている人の助けをしたり、ボランティア活動に参加したり、色んなことが出来そうです。
・心施(しんせ):心から感謝の言葉を述べること。ここで大切なことは、相手にしてやったという心を持たずに、私がさせてもらったのだという思いにたつことです。
・床座施(しょうざせ):場所や席を譲り合う親切。電車で身体の不自由な方に席を譲ったり、地位や立場などを譲ることも入りそうです。
・房舍施(ぼうしゃせ):訪ねて来る人、求めて来る人があれば、一宿一飯の施しをして、その苦労をねぎらうこと。
寺院だからできた布施の実践
平成十二年の東海豪雨の時に、私が住職を務める宝泉寺の2階大広間を、全国から集まってくるボランティアの無料宿泊所にしました。名古屋では東海高校の講堂を開放して無料宿泊所となっていました。これには西は神戸、東は横浜から来たボランティアが宿泊してくれました。これは、お寺という設備だったから実現できたのかもしれません。
布施は、仏典にしたがいますと、施す側・施される側・施すものの3つが、清浄でなければならないといいます。布施をする側の行いも大切になりますが、布施を受ける側も、心清らかに相手の思いを受けることが大切になってきます。
布施にならない行いとは何か
布施をする側について『倶舎論』には、布施になるようで布施にはならない7つの行いが記されています。これがけっこう厳しい中身になっています。
・随至施(ずいしせ):相手から、して欲しいです・下さい・恵んで下さいと、しつこく言われるので、仕方なくする施し
・怖畏施(ふいせ):納得は出来ないけれども、それをしないと具合が悪くなることを恐れてする施し
・報恩施(ほうおんせ):以前に相手から受けた恩に報いるための施し
・求報施(ぐほうせ):いま、この施しをしていくと、きっといつかはお返しが来るに違いないと、お返しを期待してする施し
・習先施(しゅうせんせ):以前から習慣として行われてきたり、前例に従ってする施し
・希天施(けてんせ):いまこれをしておけば、いずれは天界に生まれるであろうと期待してする施し
・要名施(ようみょうせ):これをすれば、自分の名声が高くなっていくことを期待してする施し
布施にならない行いは、世俗的な要素が絡むことがあるようです。怖畏施や習先施は、世間的なお付き合いとして行うことは、布施ではないとしています。確かに、お付き合いを大事にしたいと言うことで物品を提供することは、よくあります。お布施の金額を尋ねられたときに、だいたいの相場(?)を伝えることをしますが、どうもこれは、本当の布施ではなさそうです。
また、報恩施も同様です。相手の恩に報いるため行いも、布施にはならないというのです。恩に報いること自体は、大切なことには違いないのですが、恩を受けた人だからという選別をすること自体に、自分の「わがまま」があるということなのでしょう。そこには、自分の思いや考えを捨てきった清浄な布施こそが、本質であるということがわかってきます。
それでも布施を行じる意味
となってきますと、自分という我がある限り、本当の布施などできないと、つくづく感じてしまいます。
大先輩から、「自分には本当の行はできないのだが、そのまねごとをしていくのだ」と話されたことがあります。本当の布施という行いはできない、そんな私だとしても、無財の七施のような行いを勤めていくことに意味があるように感じています。だから、何があっても笑顔の私、優しいまなざしの私で、頑張っていこう!




まいてらだより