話せなくても、手を合わせるだけで大丈夫。水子供養を迷われている方へ(宝泉寺住職・伊藤信道)
投稿日:2026.06.11 | 更新日:2026.06.11
水子供養に行きたいと思いながらも、何を話せばよいのか、責められないだろうかと不安を抱く方もいます。宝泉寺・伊藤信道住職が、供養の場で大切にしていることをつづります。

伊藤信道(いとうしんどう)
1955年(昭和30年)津島市生まれ。龍谷大学文学部仏教学科卒。大学では陸上競技部。アーユス仏教国際協力ネットワークや名古屋NGOセンター創立に関わりました。また、僧侶育成機関「宗学院」院長を勤めます。
無理にお聞きしない、ということ
水子供養のご依頼を受けることがあります。
ホームページやまいてらの問い合わせフォームから連絡をくださる方もいます。電話でお話しくださる方もいます。あるいは、直接お寺に来られる方もいます。
私が住職を務める宝泉寺では、水子供養の問い合わせがありますと、まず供養の日時を決めます。依頼者の方とお寺の都合が合う日時にしています。その時には、苗字だけはお聞きしています。ただ、苗字を伝えることに抵抗がある方には、無理にお尋ねはしていません。
供養の日にお寺へ来られた方には、記入用紙に、お名前や没年月日などを書いていただきます。ただ、これも差し支えない範囲でお願いしています。私にとっては、小さな命が亡くなったという事実だけで、もう十分です。
わが子を失った悲しみで押しつぶされそうになっている親御さんが、目の前にいるという事実だけでも十分に重みがあります。それ以外のことは、もし聞いたとしても、私がお役に立つことは難しいかもしれません。書けないこと、話せないことがあっても、それでよいと思っています。

水子供養も、いつもの法要と同じようにお勤めする
準備が整いましたら、法要の流れを説明してから、読経をします。
水子供養も、いつもの一般的な法要と同じようにお勤めしています。いつもどおり、経典の言葉をかみしめるような思いで、お勤めをしています。
水子供養に来られる方の中には、初めてお寺に来る方もいます。お寺という場所に緊張される方もいます。きちんと供養してもらえるのだろうか。何か聞かれるのではないか。責められるようなことはないだろうか。そんな不安を持って来られる方もいるのかもしれません。
ですから、法要の前には、これからどのようにお勤めをするのかをお伝えしています。何をするのか分からないまま座っているよりも、少しでも安心して、その時間を過ごしていただけたらと思っています。
亡くなった小さないのちに手を合わせる時間であり、同時に、来られた方がその思いを仏さまの前に置く時間でもあるのだと思います。
「コーヒーはいかがですか」と声をかける理由
法要が終わると、私は「コーヒーはいかがですか」とお尋ねします。
帰りたい方には、無理強いをしません。けれど、これまでの経験では、皆さんがコーヒーを飲みながら、お話をしてくださいました。
この時間を設けるようになったのは、来られる方の気持ちを考えるようになったからです。宝泉寺に来られる水子供養の方は、初対面の方が多いです。きっと参詣されるときには、いったいどういうお寺なのだろうか、しっかり読経してもらえるのだろうかと、探るようなお気持ちがあるのかもしれません。
読経が終わったときには、少し落ち着いた気持ちになっていることもあります。そこで、ご本人が話したいことや、伝えたいことがあるかもしれません。その場を設けるために、コーヒーはいかがですか、と声をかけています。

こちらから尋ねすぎない。ゆっくりと聴く
コーヒーの場では、私はお尋ねすることを控えるようにしています。ご本人から話したいことがあれば、ゆっくりと聴く姿勢を持つようにしています。
先日、水子供養を勧めたご夫婦が、一周忌になるから会いたいと来てくださいました。思いを聞いてくれたことで心が落ち着きましたと、お二人からはお礼の言葉をいただきました。
私が何かを話すよりも、受け止める姿勢でいたいと考えています。
苦しかったこと。辛かったこと。悔やんでいること。誰にも言えなかったこと。言葉にできないこと。
そうした思いを、無理に整理しなくてもよいのだと思います。話せることだけを話し、話せないことは話さなくてもよい。沈黙があってもよい。涙があってもよい。
私はただ、そうですね、と言えるようにしたいと思っています。
水子供養を迷われている方へ
水子供養に行こうか迷われている方もいると思います。
水子供養をしたいと思う気持ちは、複雑なことも多いでしょう。水子さんへの思いもあれば、パートナーとの関係もあります。時には、後悔の思いを持つ方もいます。
そのような整理のつかない思いを、仏さまに聞いてもらうのは、一つの方法です。
供養に来たからといって、すべてを話さなければならないわけではありません。名前や年月日を、必ず言わなければならないわけでもありません。理由を説明しなければならないわけでもありません。
ただ、手を合わせる時間を持つこと。亡くなったいのちを思うこと。そして、自分の中にある思いを、少しだけ仏さまの前に置いてみること。
それだけでも、供養の時間になるのではないかと思います。
お寺は、責める場所ではありません。聞き出す場所でもありません。
話したくなった時に話し、黙っていたい時には黙っていてよい場所でありたいと思っています。水子供養を迷っている方が、その方のペースで、仏さまの前に座ることができればと思います。




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