葬儀は最高の法話の場。ただし…(足立信行・T-sousai代表)【死に方のココロ構え(12)】
2022.11.30
足立信行(あだちしんぎょう)
株式会社 T-sousai 代表取締役社長。1982年、京都府生まれ。在家の家に生まれる。18 歳の時に高野山で僧侶になることを決意。高野山金剛峰寺布教研修生修了。高野山で修行をする中で僧侶や寺院の役割を考え、一度下山。葬儀の重要性に気づき、2008年 大手互助会系の葬儀会社に入社。葬儀の担当者となり、年間約 120 件の葬儀を手掛ける。2012 年IT 企業に入社し、エンジニアとして活動。2017年、僧侶と葬儀会社の担当という経験から、お互いが遺族や故人のために協力し祈りの場所として本堂などで葬儀をあげ、安価で心あるお寺葬の構想を企画。葬儀の告知、WEB、導入などから実施、施行までをワンストップできる株式会社 T-sousai を創業し、現職。
※前回(そのマナー、ほんとに必要ですか?)はこちら
葬儀の法話で風習やマナーを伝えることは重要ですが・・・
葬儀を運営する立場になり15年以上経ちますが、改めて僧侶の言葉は偉大だと思い知らされます。愛する人を亡くされ、肩を落とし、途方に暮れ、茫然とするご遺族の前で、切々と語り掛ける僧侶の言葉によって、どれほどの人が救われてきただろうかと感じさせられます。
最近は通夜がないので法話をする機会が著しく減ったということを聞きます。通夜法語や通夜説教などとそれぞれ呼称はありますが、通夜の法話は宗派によっては欠くべからざるものです。けれども、通夜そのものがない昨今では、法話がなくなり、それも仕方がないのかと思っておりました。
法話しないで済むと喜ぶ僧侶も・・・
しかし、中には法話をしないことを喜ぶ僧侶がいることも事実です。「法話をすると僧侶として勉強していないのが露呈せず、うれしい」とか「法話は自信がないから、なくてよかった」等、残念な声も聞かれます。世間的に通夜ができず、そのため法話がされないにもかかわらず、それに乗じて法話を行わないことを喜ぶとは、正直、驚きでした。
法話などはいくらでもできます。通夜がなければ、初七日の席や火葬を待っている席でも法話はできます。時間があれば法を説くというのは僧侶の本分。「通夜がないから法話ができない」、「精進落としがないから法話ができない」は言い訳に過ぎません。
私自身は在家出身(家がお寺ではない僧侶のこと)なので、現在は寺もたず葬儀の執行もほぼありませんが、毎月2度ほど法話をする機会を自分でつくっています。在家の方向けに、経典の文言を伝えたり、仏教の教理を伝えたり、御祖師さまのご生涯を伝えたり、仏法を伝えることを実施しています。
偉そうに言うつもりはありませんが、法話の場所などいくらでも作れるのだと思います。常日頃から、布教の場づくりをどれくらいしているかがとても重要であると感じます。布教が苦手とか、法話に自信がないなど、練習次第で何とでもなります。
道元禅師の言葉に救われた法話の心構え
僧侶の法話に巧拙があり最初は自信がないのもわかります。私も24歳の時に高野山真言宗の布教師になった際、話すのがとても嫌でした。法話をする前に緊張して、うまく話せるかどうか、きちんと伝わるかどうか心配で心配で仕方がありませんでした。手に汗をかき、喉は乾き、目が血走っている。緊張して話す毎日が続き、見ている聴衆の方が逆に緊張してしまう。非常によくない状況でした。
そんな時です。何気なく勉強のつもりで読んでいた『正法眼蔵随聞記』に道元禅師が二祖の懐奘禅師の法話に対して激励をする場面が出てきます。
詳述は割愛致しますが、「嘉禎二年臘月除夜」と題される一節。初めて僧侶の前で、説教(法話)をすることを許された懐奘禅師。この中で道元禅師が懐奘禅師に向かって「衆のすくなきにはばかる事なかれ。身、初心なるを顧みる事なかれ。」と励まします。
現代語に訳するならば、「法話を聞く人が少ないことを気にしなくていい。自分が仏教に対してまだ日が浅いことを考えなくていい。」自分の思う通り、思い切って法話をしなさい、という意味です。簡単に言えば、法話を前に緊張する懐奘禅師に「心配するな」と声をかけたということです。
私はこの言葉にとても救われました。緊張し、臆することなく、思い切って堂々と話すことが大切であると学び、光が見えた気がしました。
法話の巧拙は確かにあるのでしょうが、自信をもって話すことの方が重要だと思います。法話の相手のために、なにを伝えられるのか、なにが伝わるのか、それを懸命に考え伝えることこそが、法話の要諦なのだと思います。
葬儀は最高の法話の場。ただし…
葬儀は法話の絶好の場所。仏教を肌で感じることができる最高の場所であると思います。
話の巧拙や自信の有無など色々あるでしょうが、ぜひご遺族のために、心が不安定なご家族のために、僧侶は法話をしていただきたい。悲嘆のうちにあるご家族に、生きるヒントをお伝えいただきたいと思います。
しかし、なんでもかんでも法を説けばいいというものではないと思います。法話をする上で、ご遺族との間になくてはならないものがあると思います。それはなにか。
それは「信頼関係」です。
葬儀は最高の法話の場です。ただし、信頼関係の強さによると思います。僧侶、遺族、共に信頼を寄せていて、菩提寺と檀家という関係以上の、何代も前からのお付き合いがあれば、故人の人となりを話すことも可能ですし、戒名もその生き方から導き出せる。しかし、信頼関係が弱い場合は、どうしても通り一遍のことしか話せないでしょう。つまり、葬儀の法話は、信頼関係を基調にした場であり、同時に、常に法話や関係構築に勤しんでいるか、日頃の僧侶の関わり方が試される場でもあるのです。
何の付き合いもないのに葬儀のときに何かを説いても説得力はありません。「何を言うか」以上に、「誰が言うか」が重要です。
世間一般的に見ても、初対面の方に突然偉そうに言われても困ってしまうのが実情ではないでしょうか。私は、例えそれがどれだけ世間的に有名な人であっても、著名な学者の方であっても、肩書が立派でも、信頼関係のない方からの言葉を、そのまま受け取るほど素直ではありません。
常日頃からの関係構築が暴露されるのが葬儀だと考えると、大切なのは日常からの関わり合いであると感じます。常日頃の法話の成果と同じで、お寺や僧侶が檀信徒の方々との関係を強くされることが、法話の向上につながると確信します。