コロナ禍で変わることと変わらないこと(本休寺 住職・岩田親靜)
2020.05.27
withコロナ、afterコロナという言葉やコロナ禍という言葉が飛びかっています。個人的にはオンライン疲れも起こしつつ読書、読経、掃除の生活を行っています。そんな中でこれからのお寺はどうなっていくのだろうという暗中模索をしています。
変わる時代
コロナ以前、本休寺は子育てサークル『ぴよこの会』、子ども会、茶話会、写経、リトミック(2クラス)、ヨガ、テンプルモーニング題目講と支度、掃除も含め月に15日ほど稼働していました。本休寺以外にもう一つ運営をお預かりしているお寺でも写経とテンプルモーニングを行い、結構忙しく動いていました。それが今、法事・葬儀の供養だけになり、本を読んだり、オンライン会議がやたら増えてきました。解除に向けて自己研鑽をするのは、悪くないですが、これからどうするべきなのか?という問題はまだ答えは見えません。
変わらない人間
一方で、生老病死の事実は変わりません。人によっては、コロナで死というものが、日常にあり、病という変化が突如訪れる感覚が現れてきているので、変化したと感じるかもしれません。でも、人は生まれれば、誠に残念ながら亡くなります。意識しようがしまいが・・。仏教はこれが前提です。
ではどういきるのか?
コロナ禍の中でも、人は亡くなります。そこに善悪はありませんし、老少不定はこの世の習いでありますから、若い方の場合もあります。
ところで、話は変わりますが・・浄土はどこにあるのか?人は死んだらどうなるのか?という問題をどう考えていますか?どこか特定のところに赴くのか?輪廻転生 するのか?はたまた死は終わりなのか?
簡単にいうなら死んでみなければわかりませんし、わかったように言うのはうそではないかと思ってきました。
宗派仏教なら祖師 がこう言った、○○教ならこう言ってると法事や葬儀では話しをするケースもあります。でもそれって本当なの?と考えたりもします。
革新的な取り組みで有名な神宮寺(長野県)の住職・高橋卓志氏は『生き方のコツ 死に方の選択』(集英社文庫)の135~136頁で以下のように述べています。
宗教がもつ教学や哲学は、人間の「生」と「死」のやりとりや葛藤から生み出され、それぞれの「いのち」をどう生きるのかという、精神的な指標を示すものであると思います。また一方、恐怖と不安をともなった「死」を目の前にしたとき、死の向こう側にある「希望」を死に逝く者がどう納得するか、つまりどのように死を受容するかという方法を説くものでもあるとぼくは考えています。再生や輪廻、天国や極楽・浄土などの存在をさまざまな宗教者や経典が語っているのは、「死」への恐怖やたった一人で死に逝く寂しさを解消する方法論(方便)なのだと思います。だから、それらが実際にあろうとなかろうと、そんなことは問題ではないのです。
実は私もこう感じていて、言えなかった言葉を言語化してくれた気がしたのです。
その上で、私にとってしっくりくるのは、浄土は人の心の中にあるという考えです。
私という存在は、あくまで仮の因縁により生じている。その存在は亡くなりますが、私の生き方は、善きにせよ悪きせよ残された人々に影響を与えるでしょう。自分の良き部分や理想的社会を浄らかな国土すなわち浄土というならば、個々の心に浄土はあるし、それは次世代に一分なりとバトンタッチされる。心の中にある浄土の受け渡しであり、次世代は引き継ぎの上、理想的社会を実現しようとする。
日蓮聖人の浄土観をかつて田村芳郎博士は『日蓮 殉教の如来使 』(128頁)で、「ある浄土(絶対浄土)となる浄土(淨仏国土 )とゆく浄土(来世浄土 )の三種浄土」と表現しました。ある浄土とは「ただいま、ここにおいて感得される浄土である。」(61頁)なる浄土とは、「現実改革を通しての浄土の具現化を意図する」(61頁)ものと表現しており、個人的には心の浄土とそのバトンタッチは、いささか矮小化していますが、この部分で似ているかと感じていました。
ただ難しいのはゆく浄土、すなわち死後の世界、他の世界としての浄土です。
ただ会いたいという思い
浄土を心の問題と捉え、故人の生き方の良い部分を受け取り、悪しき部分を反面教師とするという話をし、今を一生懸命に生きるこれが供養の精神とお話する時があります。
そんな話をしつつ輪廻転生や浄土の話もします。今まで話をしてきたように、個人的には浄土の有無はもの凄く重要な問題かと言えば、理性的に考えるならば、重要な問題ではありません。今を生きる。丁寧に生きることが大事であり、法事や供養は、私はあくまで関わりやつながりの中にあることを知り、実感し丁寧に生きる確認のためと考えてきました。
しかし、一方でこれだけで納得して生きて行けるでしょうか?
不慮の死、急死、納得いかない死と出会った時、再び会いたい。生まれ変わっても会いたいと思わないでしょうか?
自分は葬儀を導師として行い、火葬炉の前でお題目を唱えてきました。泣き崩れたり、お棺にしがみついている方々にも出会ってきました。再会できないなんて思いたくないというのは、本音です。幻想かもしれないが、再会を願いたいし、自分もまた、縁ある人に再び会いたいと願わざるを得ません。
浄土があって欲しい、ないと納得しがたいという部分があるのです。
さらに言うなら、僧侶という業の深い人生、死にかかわり、布施で生き、倫理的に生きるということを自らにかすあり方を生きている自分は、なんだかんだで過去の因縁を受けてるのでは?と感じています。僧侶が悪いというのではなく、巡り合わせの問題としてです。
私にとって来世は、ある。だからこそ今を丁寧に生きる。それによって生まれ変わったら僧侶にならないで生きるというのは理想です。
ここまで読まれた方は、覚悟が足りない。それでよいのか?とお思いになるかたもいるでしょう。でも揺らぎながら、考えながら、嘘なく今を生きるというのは、実は苦しみと向き会うということだと思います。自己の脆弱性を見つめ、問い続ける覚悟を持ち続けることこそが、今の自分の仏教なんだと感じています。
合掌
世の為!人の為!法の為!(ただし・・宗門の為!は除くかも)ご精進の段
大慶に存じます。
お元気ですか?
めーっせーじは控えておったのですが、コロナ禍メールしました。
仏教志塾@深川
amaterasusyaka.comは停滞しております。
笑うお時間が在りましたら、超訳法句経が少しだけ変化していますので仏教志塾@深川の「ものおき」を覗いてみてください。
合掌