なぜお葬式をやるのか?『エンジンの教え』がないお葬式が増加中 (足立信行・T-sousai代表)【死に方のココロ構え(30)】
2024.10.01
足立信行(あだちしんぎょう)
株式会社 T-sousai 代表取締役社長。1982年、京都府生まれ。在家の家に生まれる。18 歳の時に高野山で僧侶になることを決意。高野山金剛峰寺布教研修生修了。高野山で修行をする中で僧侶や寺院の役割を考え、下山。葬儀の重要性に気づき、2008年 大手互助会系の葬儀会社に入社。葬儀の担当者となり、年間約 120 件の葬儀を手掛ける。2012 年IT 企業に入社し、エンジニアとして活動。2017年、僧侶と葬儀会社の担当という経験から、お互いが遺族や故人のために協力し祈りの場所として本堂などで葬儀をあげ、安価で心あるお寺葬の構想を企画。葬儀の告知、WEB、導入などから実施、施行までをワンストップできる株式会社 T-sousai を創業し、現職。
※前回(AIで死者を「復活」させる ー私がAIの死者に抱く違和感ー)はこちら
意外に多いお葬式の意味を知っている人たち
祭壇を設けずお経もない、火葬場でのお別れのことを「直葬」といいますが、近年この直葬が増えています。私の周りの葬儀社における直葬の割合は年々増加傾向にあり、歯止めがきかないことを聞きます。私が葬儀社に勤めていた15年ほど前は、直葬は全体の3割くらいでしたが、いまは4割から5割強くらいに増えているのではないかと感じております。
直葬が増えてきた原因はいくつかあります。お葬式をあげることができない経済的な理由、参列者がいない人員的な理由、故人が葬儀は不要であると言っていた遺言的な理由など。その中の一つに、そもそもお葬式をやる意味が分からないという意味的な理由が挙げられます。
日本最大の葬祭専門業者団体である全葬連が、2022年に実施したお葬式に関するアンケート結果には、葬儀に関しての設問があります。その中に「お通夜」や「葬儀」の意味をたずねたデータがあります。
「お通夜」に関して言えば、お通夜の意味を先に伝え、その意味と自分が知っているお通夜の意味に齟齬があるかどいうかというものです。「あなたが思っていた『通夜』の意味と認識の違いはありましたか?」の問いに「なかった」、つまり「お通夜の意味を理解し認識している」という人が81.6%もいました。逆に、「あった」つまり「お通夜の意味を間違って理解していた」という人は18・4%でした。実に8割以上の人がお通夜の意味や意義などを知っていることが明らかになりました。
あくまでもアンケートですので、この数値を単純に日本人全体の意識にあてはめることは難しいでしょう。しかし、8割以上の人がお通夜の意味や意義を理解しているという結果は、厳粛に受け止めなければならないと思います。すなわち、直葬の理由として「お葬式をやる意味が分からない」というものは誤っている、もしくは、別の理由があるのではないかということです。
エンジンの教えとハンドルの教え
14年前に、浄土真宗本願寺派(西本願寺)の御門主(当時)である大谷光真御門主と東京工業大学の上田紀行先生が対談された『今、ここに生きる仏教』(2010年 平凡社)という本が出版されました。現役の御門主と著名研究者による稀有な対談に大きな興味をもち、出版と同時に購入しました。
この本にはいくつも今日的なテーマが記載されているのですが、とりわけ大谷前門様の「エンジンの教えとハンドルの教え」はとても印象的でした。全文を掲載することは紙幅の関係上難しいのですが、要約すると以下のようなことをお話されていました。
仏教にはエンジンの教えとハンドルの教えがあると思います。ハンドルの教えというのは、「こういう風に生きればいい」とか「このように考えればうまくいく」など世間を歩んでいくための、テクニックやノウハウなど、いわば「ハンドルをどういう風に動かすか」というような教えです。このハンドルの教えがいま巷に多くあり、僧侶含めた色々な人が伝えています。
それとは違い、エンジンの教えは、「元気が出てくるような教え」だったり「前に進むような教え」であったり、「エネルギーが湧いてくるようなエネルギーのこもった教え」なのです。
ハンドルだけで自動車は動きません。そこにはエンジンも必要で、教えもハンドルのみではなく、エンジンの教えと両方あってはじめて物事が動き始めるのです。
概略、このようなお話しでしたが、私自身、とても大きな気づきを得ました。仏教そのものというよりも、さらに大きな人間として、いかに生きるべきなのかを、何か諭されたように感じたのです。
東工大の上田先生は前門様のお話しを聞かれて最後にこのような言葉を述べられます。
『がんばれ仏教』(※上田先生の御著書)の中で取り上げたお寺は、どうやって仏教を広めようかということを頭で考えているんじゃなくて、とにかく苦しんでいる人が目の前にいて、何かやらなければっていうエンジンで動いている。最初からハンドルをどうきるかなんてわからない。つまり、最初に教義、教説があって、それにはめ込もうというのではなく、ただ、ただ、のっぴきならない思いが出発点にあるわけです。そして人々も、あのハンドルさばきはいいねって感銘を受けるのではなく、とにかくそのエンジンの方のエネルギーに感銘を受けて、やはりここに宗教者がいるんだ、お坊さんがいるんだ、ということが伝わってどんどん活動が広がっていく。
(引用:『今、ここに生きる仏教』 2010年 平凡社 大谷光真・上田紀行 P.29)
なぜお葬式をやるのか
アンケートデータではありますが、お葬式に対しての現代人の考え方や認識は、まさしく「ハンドルの教え」が主流なのではないでしょうか。
テクニックやノウハウや意味的なものは十分通じているけれども、肝心のエンジンの教えがないため、結局、前に進むことがない。エネルギーのないまま、漫然と直葬が増えている。菩提寺がいるからお葬式をやる、親戚がうるさいからお葬式をやる、故人が言ったからお葬式はしない、お金がないからお葬式はしない、などのエネルギーのない理由によってです。
むしろ、もっとエモーショナルな、直感的なものがお葬式の理由であっても良いと思います。お葬式はよいものだ、お葬式は素晴らしいものだ、お葬式でおばあちゃんとお別れができて本当によかった、など。そのようなエンジンの教え、エネルギーある言葉が、お葬式にもっとあってもよいのではないかと感じます。
私個人は、両親が遺言で「お葬式は不要だ」と言っても、断固としてお葬式をあげます。親族から何を言われようが、あの世で両親に怒られようが、私は見送りたい。それは私が僧侶だからだとか、葬儀社だからだとかではなく、個人的な想いとしてそう考えるのです。私は両親を見送りたい。
お葬式をやるエンジンがなければ、直葬はなくならないのではと、最近強く感じます。そのためには、僧侶や宗教者が、もっと声を伝えて、もっと言葉にエネルギーをもって発信していくことが重要ではないでしょうか。