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AIで死者を「復活」させる ー私がAIの死者に抱く違和感ー(足立信行・T-sousai代表)【死に方のココロ構え(29)】

2024.08.19

足立信行(あだちしんぎょう)

株式会社 T-sousai 代表取締役社長。1982年、京都府生まれ。在家の家に生まれる。18 歳の時に高野山で僧侶になることを決意。高野山金剛峰寺布教研修生修了。高野山で修行をする中で僧侶や寺院の役割を考え、下山。葬儀の重要性に気づき、2008年 大手互助会系の葬儀会社に入社。葬儀の担当者となり、年間約 120 件の葬儀を手掛ける。2012 年IT 企業に入社し、エンジニアとして活動。2017年、僧侶と葬儀会社の担当という経験から、お互いが遺族や故人のために協力し祈りの場所として本堂などで葬儀をあげ、安価で心あるお寺葬の構想を企画。葬儀の告知、WEB、導入などから実施、施行までをワンストップできる株式会社 T-sousai を創業し、現職。

T-sousaiホームページ

※前回(葬儀をしなかった人は後悔しています)はこちら

死者を「復活」させるAI業者

 技術の進歩はすごいもので、生成AIが世に出た瞬間、またたく間に活用されはじめました。最近ではフェイクニュースのように、本物の政治家や芸能人と見間違う画像や動画が出回り、ありもしない発言が拡散します。情報を扱う人のリテラシーや見極める能力がますます大切であると認識します。

 先日のニュースで中国のAI業者が死者を「復活」させたという出来事が報道されました。「復活」とはそのニュースでAI業者が使用している言葉です。業者の言う「復活」とは、亡くなった子どもや父親、母親の肉声をデータとして読み込み、画像を処理して、あたかも亡くなった人が話しているようなものにするというもの。フェイクニュースの故人版という印象ですが、身近な人であるがゆえに、その需要はあると報じられます。


(出典:TBS NEWS DIG Powered by JNN)

 実際の映像を見ますと、処理や動きにややぎこちなさは残るものの、今後の開発で精度が上がり、なめらかに話している様子になるのではないかと思います。ディープラーニングをすれば、故人と会話することも時間の問題であると感じます。

 業者は死者を「復活」させていると豪語し、ひとりにつき8万円を費用として、これまでで1,000人ほどの「復活」を実施したと言います。依頼した方の中には「亡くなった子どもと会えてよかった」と涙を流す方もいたようで、“どうしても会いたい”という心の支えになっているようです。依頼があり、正規の料金を受け、ご遺族も喜んでいるようであれば、私が何か意見を差し挟むことはありません。ご遺族が喜んでいるのであれば、十分だと思います。
 しかし、私はこのAIの死者にぬぐい切れない違和感をもち、私自身は決してAIの死者を依頼しないだろうと激しく感じました。その理由は、「死」というものの尊さにあります。

自死で旅立った友人と先輩

 私はこれまでに自死で親しい人を2人亡くしました。ひとりは同僚で友人、ひとりは先輩でいろいろ教えてくれた方。共にかけがえのない存在でした。
 2人の死から10数年経過している今でも私の心の傷は完全には癒えておらず、その人たちが亡くなった日になると、毎年心に淋しさを感じます。抗いようのない気持ちを持て余すこともあります。

 友人と先輩が亡くなった当初は、その事実を受け容れることができませんでした。悲しみも憤りも感じ、誰にぶちまけることもできない鬱屈した感情がわだかまりました。 しかし、私の心の中で何度も何度も友人・先輩と会話をしながら、徐々に死を受け容れて日常に戻ることができ、今日に至ります。
 傷は決して癒えてはいません。けれども、その分、心の中での友人と先輩との思い出は増えました。寂しいときは心の中で会話をしたり、辛いときは心の中で思い出話をしたりします。私の中では2人は生きていますし、これからも思い出は作られていくでしょう。

 私が仏教徒であるからかどうかわかりませんが、友人と先輩の死で感じたことは、肉体は無くなっても死者は心の中で生き続けるという確かな実感でした。心の中で会話し続けることができるという明確な知見でした。

 生は尊い。また死も尊い。

 死とは、憎むべきものや、恐れるべきものや、否定すべきものではなく、死もまた尊いものであり、生と同じく大切にしなければならないものであり、一時は受け容れがたいもののやがては心をより一層豊かにしてくれるものだという、個人的な気づきを体験しました。
 それは紛れもなく2人の死者が私に教えてくれたかけがえのないプレゼントです。

亡くなった人たちは私の中で今も確かに生きています
亡くなった人たちは私の中で今も確かに生きています

私がAIの死者に抱く違和感

 亡くなった友人と先輩は実感として私の心の中に生き続けています。それはデジタル処理されたデータとしての死者などでは決してなく、質感を持った存在なのです。AIの精度が高くなっても高度になっても、私の中の死者は変わることはありません。
 私がAIの死者に感じた違和感は、死というものの尊さを薄めよう、目をそらそう、否定しようという、そこはかとない虚しさにありました。死者に会いたくなるくらい心が苦しいことも理解できますし、死者と会話したいという強い願いを希求することもわかります。しかし、どんな手段を使ったとしても、死という事実は敢然としてあります。その事実を受け容れて死者と心で会話しながら、共に成長し続けることが大事なのではないかと感じるのです。

 死というものを薄めて緩和することを否定はしませんが、私は死を薄めたり緩和したりすることを潔しとしません。それは、死者と過ごした自分の心の思い出を希薄化させ、忘却することにつながるからです。
 日本はお盆やお彼岸含め、死者と邂逅する機会が多くあります。その機会を大切に感じながら、生きることがよほど私にとっては大切だと信じています。

亡くなった方と共に語り合うことができるのは素晴らしいことだと感じます
亡くなった方と共に語り合うことができるのは素晴らしいことだと感じます

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