野菜づくりに見つけた、仏教の教え(最明寺住職・加藤宥教)
2025.06.16
僧侶になる前は、自動車づくりのエンジニアだった最明寺(神奈川県・東寺真言宗)の加藤宥教住職。
お寺に入ってから始めた野菜づくりによって、それまでの人生では気づかなかった、奥深い学びと気づきがあったそうです。
野菜が育つまで、そしてその野菜が人の手を渡り食卓に並ぶまで。「縁起の輪」がどのように広がっていくのか - そんなお話を語ります。

加藤 宥教 (かとうゆうきょう)
1978年福岡県生まれ。九州大学工学部卒。自動車メーカー在籍時はV6エンジンの開発を担当。在家の身であったが結婚を機に出家。スパナを数珠に持ち替えて修行。2011年より最明寺住職。「こころが豊かになるお寺」をモットーに、「お寺の活性化」、「時代にあった供養」に取り組んでいる。
採れたて野菜のおいしさと美しさ
畑仕事なんて、正直なところ、まったく経験がありませんでした。
僧侶になる前は、エンジニアとして自動車を作っていたくらいでしたから、自然や土に親しむことがなかったのです。
そんな私が畑を始めるきっかけになったのは、この最明寺に入ってからです。先代住職でもある師匠から、「とりあえずこれを植えてみろ」ともらったキャベツの苗。深く考えることもなく、とりあえずお寺の空いた土地に植えてみたのがはじまりでした。いまから17年も前のことです。
とはいえ、キャベツひとつを育てるのも、思ったより大変なんですね。植え付けから収穫までの約3か月、虫と闘い、草を刈り…。ちょうちょが卵を産みつけ、イモムシが葉を食べはじめたときはショックでした。結局、はじめての野菜作りではふたつのキャベツしか収穫できませんでした。
でも、立派に育ったキャベツを手に取った時の、あの色つやは忘れられません。ぴかぴかと光るみずみずしさ、つややかな緑。包丁を入れると切り口もきれいで、生のまま食べてみると口の中に甘味がふくらみ、スーパーで売られているものとの違いがすぐに分かりました。
そうした感動体験が「またやってみたいな」と思わせて、それ以来、ジャガイモやキュウリ、ゴーヤ、トウモロコシ、トマトなど、毎年なにかしらを育てています。
たくさんの人の手を巡る野菜たち
畑をしていて気づかされたことは、実にたくさんあります。
そのひとつが、「食卓に並ぶものには、本当にたくさんの人の手が関わっているんだな」ということです。
作物を育てる人、それを運ぶ人、販売する人、料理する人。さらに、農機具やトラック、包丁やお皿を作る人たちの力もあって、はじめて私たちの食卓が成り立っているのだと、改めて感じます。
つい先日も、とれたてのジャガイモを妻がコロッケに、母がポテトサラダにしてくれました。料理が苦手な私がそれらをおいしくいただけるのもまた、妻や母のおかげなのです。



こうした気づきは、仏教の「縁起」という教えにつながっていると思います。
「縁起」とは、あらゆるものごとが互いに関わり合いながら成り立っているということ。私たちは決して自分ひとりで生きているのではなく、さまざまなご縁の中で生かされているという教えです。
私がコロッケやポテトサラダを口にするまでにも、たくさんの人のご縁が重なっているのだなと実感すると、妻や母がつくってくれた料理が、いっそうありがたく、おいしく感じられるものです。
また、お寺で食べきれない野菜は「おてらおやつクラブ」を通じておすそわけしたり、お檀家さんと一緒に焼き芋にしたりしています。
自分たちの手を離れた野菜が、地域のみなさんの手に渡り、また誰かの笑顔やご縁をつないでくれる。そんな巡りが、とてもありがたく感じられます。


大自然の力におまかせする
縁起の輪は、人と人との間だけでなく、大自然にも広がります。そもそも野菜作りは、大自然の力をお借りしないと成り立ちません。
畑を耕し、苗を植えたあとは、土と水と太陽におまかせ。そのため、悪天候で不作な時もあれば、できあがった野菜がいびつな形をしているなど、ままならないことなんて、多々あります。
でも、ままならない現実と向き合うことで、人間がいかに自然の中で生かされているちっぽけな存在であるかを感じますし、とても謙虚な気持ちになれます。
これは裏を返せば「人間の都合通りにはいかないよ」という、とても大事なことを教えてくれています。
エンジニアの頃は、計画的に自動車を作っていくことが当たり前でした。同じものを、同じ形で、決められた数だけ、自分たちの都合どおりに正確に作っていく世界です。
でも、野菜作りはまったく違います。「ああしたい」「こうしなきゃ」と、すべてを人間が計画するのではなく、大自然の力におまかせするという姿勢に、いい意味での余裕やおおらかさが生まれるように感じるのです。

この記事を書きながら、「どうして師匠は私にキャベツの苗を授けたのか」とぼんやり考えていたのですが、それはきっと、「畑のなかに、仏さまの教えや、いのちのつながりを感じなさい」という、そんなメッセージだったのかもしれません。
