受け止める大地のありて 椿落つ(西法寺住職・西村達也)
2022.12.22
西村達也(にしむらたつや)
西法寺住職。1962年北九州市生まれ。龍谷大学文学部仏教学科真宗学専攻を’85年卒業。自坊法務の傍ら鎮西敬愛学園宗教科の非常勤講師を勤めた。’97年第十三世住職に。社会福祉法人慈恵会(済美保育園/旭ヶ丘保育園)理事長。
掛け替えのない人生。精一杯生きた人生
これまで多くの方々の葬儀を勤めさせていただきました。その都度故人のお顔を拝ませていただきながらいつも思うことは、「一人ひとり、掛け替えのない人生」であるということ、そして「その人なりに精一杯生きた人生」であったということです。
考えてみれば、私たちは気づいたらこの世に生きていました。この世とは、大宇宙という果てしない空間であり、地球という星であり、日本という島国です。この世は何が起こるかわかりません。地震、台風、疫病、更には国際関係や戦争、分からない事だらけです。そんな世界に、ポーンと投げ出された私たちは、正直なところどっちを向いて何をしたらいいのか分かりません。ただただ周りを見よう見まねで、必死に生きているのではないでしょうか。
周りの環境のこともそうですが、自分自身のことすら分かっていません。苦しみや悩みを避けようとしても、次から次に苦しみや悩みが襲いかかります。仏教は、苦悩の根本原因は自分自身にあると説きます。逃れられない人間の性質、つまりは自己中心の思い込みの積み重ねが、私のいのちを造り上げていく。あたかも雪だるまがどんどん大きく重くなっていくように、私たちのいのちの雪だるまは、どんなにもがいても沈む以外にないようです。
人は、与えられた(ある意味逃れられない)環境を、その人なりに必死で生きているのだと思います。どんな生き方であっても、その人なりに必死であることには変わりません。そしてやがて死んでいくいのち。
苦悩から逃れようと必死に生きるけれども、逃れられないどころか、苦悩は益々深まっていく。そのような私たちのことを、仏様はどのようにご覧になられたのでしょうか?
仏様の御こころを「慈悲」と言います。私たちのことを「慈しみ、悲しまれて」おられます。私たちの苦悩を我がこととして深く悲しまれ、必ず救うと慈しまれているのです。
受け止める大地のありて 椿落つ
「受け止める大地のありて 椿落つ」
大久保昭子さんの俳句です。私はこの句が好きです。
この句を見るたびに、私は大地のようなアミダさまを連想します。私がこの大宇宙の中でどんなにもがき苦しみ、落ちていこうとも、アミダさまの大きな慈悲の真っ只中であることを教えてくれる気がするのです。何の術もない私に、生きる土台が与えられたような心持ちになります。
掛け替えのない人生を、精一杯生きてまいりましょう。