地域に根ざしたお寺から公案禅の未来を描く – 龍雲寺 住職 細川晋輔さん (東京都世田谷区)
2016.07.21
負け犬人生からのスタート。転機は大切な人の死だった
東京都世田谷区野沢。閑静な住宅街に、豊かな緑をたたえた禅寺らしい風格のお寺がある。東急バスの停留所『野沢龍雲寺』でも広く知られた、臨済宗妙心寺派の龍雲寺だ。
僧侶自身が仏教を信じ、仏教によって救われていなければ、人を救うことはできないと思うのです。
龍雲寺の若き住職、細川晋輔(ほそかわしんすけ)さんは力強く語る。小柄ではあるが、しっかりとした体格とぶれない眼差しの細川さんからは禅僧らしい穏やかな自信がみなぎる。
その自信の源は挙げればきりがない。細川さんは、仏教書ブームの先駆けとなる『般若心経入門』の松原泰道(まつばらたいどう)師を祖父に、臨済宗妙心寺派の行政トップである宗務総長を務めた細川景一(ほそかわけいいつ)師を父に持つ、仏教界のサラブレッドと言うべき血筋。また、細川さん自身も臨済宗の中でも特に厳しいとされ、多くは3年で修行を一区切りとする京都の妙心僧堂に9年在籍。多くの公案(禅問答)に取り組んだ、臨済宗僧侶として誰もが一目置く存在である。
しかし、細川さんの歩みは順風満帆だったわけではない。
兄は一流名門校に通うのに、自分は受験に失敗。何をやっても負け犬人生で、東京から抜け出したくて仕方がありませんでした。大学でようやく京都に抜け出し、朝からサークル活動とバイト三昧の日々。落ちこぼれていましたが、暗い方に行かず、明るく遊ぶ方向に行きました(笑)
当時を振り返り、そう笑う細川さんからは何かを突破してきた明るさが感じられる。その原点は僧堂での経験だった。
僧堂では落ち込むことは何度もありましたが、龍雲寺という存在が大きく、逃げるという選択肢がありませんでした。
大きかった出来事は、5年目に起きた同期の死でした。サインが出ていたはずなのに気付けず、止められなかった自分を責め続けました。自分を責め続ける中、坐禅をやったら救われるのではと、命がけで修行をやってみようと思ったのです。
知恩報恩との出会い
「やらされる修行」から、「やる修行」へと心を入れ替えた後は、公案を透過(クリア)する速さが格段に上昇し、9年たった頃、老師から「君はもう帰りなさい」と言われるまでになった。
公案には真剣に取り組みましたが、自分にとっての最大の公案とも言うべき疑問は同期の死でした。坐禅中は絶えずそのことが頭をよぎります。その中で、ようやく見つけた言葉が「知恩報恩(ちおんほうおん)」でした。
文字通り、恩を知り、恩に報いるということ。様々な縁で、ある者は亡くなり、ある者は生を長らえる。その定めの中で、生ある者は亡くなった人から受け継いだ恩に気づき、それに報いるために何をなすべきか。知恩報恩のために何をするかが、僧堂を去る細川さんの宿題となった。
禅では悟った後に何をするか、悟後の修行が大切と言われます。龍雲寺に帰ってきた一週間後に東日本大震災が起きました。何か役に立ちたいと作業に従事したものの、被災地の皆さんにはかける言葉が見つかりませんでした。あの状況を目の当たりにして、仏教には「ありのままを受けとめる」という言葉がありますなんてとてもじゃないけど言えません。自分が9年間修行してきた禅の教えはここでは役に立たないと思い知らされ、土砂の除去など、できることを全うしました。あの時に必要な宗教者は、同じ被災者として、同じ方言を話す当地のお坊さんだと痛感しました。
しかし、被災地では難しいが、東京だったらできることはあるのではないかと考えるようになったと細川さんは言う。
東京で震災が起きた時には避難所としての使用はもちろんのこと、僧侶として役に立てるように自分を磨くことが大切と感じます。東京、そして世田谷という土着性がある龍雲寺や自分に何ができるかを考えています。
「野沢に龍雲寺があって良かった」と言われるお寺を目指す
宗門か、東京か、野沢かと問いかけられた時、私は野沢に軸を置きます。「野沢に龍雲寺があって良かったと」思えるお寺を作っていきたいです。
細川さんは迷いなく言い切る。野沢に軸を置くことは龍雲寺の伝統でもある。
武家が作ったお寺が多い中、龍雲寺は地域から求められて建立されたお寺です。みんなの思いでできたお寺であり、300年間大事にしていただきました。歴代住職も地域のために尽力してきましたし、野沢龍雲寺というバス停の名前もそれを物語っていると思います。
龍雲寺は野沢という地域のために色々な取り組みを行なっている。中でも代表的なものは東京では珍しい盆踊りだ。
今年で49回目になります。準備から当日の見回り等、地域の方に支えられています。盆踊りは仏教行事ど真ん中なので、誰もが踊りやすい盆踊りを目指しています。自分が元気だということをご先祖様に見ていただくのは布教そのものでもあります。
地域との関係を表す目に見える一つの証が、龍雲寺の境内にある鬱蒼とした雑木林だ。
私が小さい時は境内の真ん中に芝生があって野球をやっていましたが、今は天然のガーデニングになっています。地域にマンションが建つ際に、代々守ってきた木を伐採したくないので、龍雲寺で引き取ってくれないかと頼まれて。それ以外にも似たお願いがあり、野沢に代々生えてきた木が境内には植えられています。昔見た木が知らず知らずのうちに龍雲寺で見られるという良さもあります。結果として都心には、珍しく鬱蒼とした雑木林になっています。
龍雲寺は地域の神社との関係も大切にし、神社の行事には必ず龍雲寺として参加している。
神社にも衣で行きますし、二礼二拍手もやります。野沢講として三峯神社(埼玉県)・榛名神社(群馬県)に雨乞いのお参りに行く行事も150年以上続いています。今の野沢には水田も畑もない中で、「続いているものを大事にしよう」という思いが皆さんにあるのでしょう。三峯神社と榛名神社から分けていただいた神社が龍雲寺にもありますし、神社との関係はこれからも大切にしていきたいです。
野沢のため。龍雲寺の理念は境内や様々な取り組みに垣間見える。知恩報恩の一つのあり方として、龍雲寺の理念は次代に受け継がれていくに違いない。
公案禅に息吹を取り戻したい
龍雲寺では毎週日曜日の早朝に坐禅会を行なう。最近は瞑想やマインドフルネス等も流行になる中、明確に何かを欲している人が多く来る。それに従い、坐禅会もレベルアップする必要性を細川さんは感じている。
臨済宗は公案あってこその坐禅。疑問なくして坐禅はありえません。隻手音声(せきしゅおんじょう)という公案は片手の音を聞くというものですが、分からない疑問で心を満たすと、その他の考えが押し出されていきます。疑問は何でもよく、仕事でも家庭のことでも良いです。疑問と一体になると苦しみが苦しみではなくなる境地があります。
坐禅は何かを得るためではなく、何かを捨てるためのもの。帰りのバスで「得るものが何もなかった」というのは大金星で、ゴミを捨てる気持ちで来ていただきたいです。見返りや、何かを得たいと思いがちな時代だからこそ、何かを捨てるという禅の意味があると思います。
細川さんは公案禅を通じて多くの人に「心の柱」を見つけてほしいと願っている。
私はゴムのように軋む柱を理想の心として捉えています。楽しい時は楽しい。悲しい時は悲しい。感動する時は感動する。心がゴムのように倒れ、ゴムのように戻る。固いだけの柱は心がある方向に倒れた時に戻って来られない。ゴムみたいな柔軟な柱が自分の心にあれば、いつでもそこに戻って来られます。世間体や評価で囲まれているものをはがし、捨てていく中で心の柱を探すのが公案禅の醍醐味です。
臨済宗の公案は、白隠禅師(はくいんぜんじ)が体系化したものだが、細川さんはその体系をしっかりと護持しながらも、固執しては教えに背くと言う。
門外不出の公案も、書籍やGoogleで分かる世の中になってしまっています。専門の僧侶の修行は、現行以外の方法は考えられませんが、坐禅会などを通じた布教という点では、現代の公案禅にもう一回息吹を吹き込むことが必要で、その鍵は不生禅(ふしょうぜん)だと思っています。
人は生まれながらにして仏の性質を持ち、形式的な坐禅ではなく日常生活そのものが悟りに通じると、平易な言葉で人々に説いたものが不生禅である。不生禅を説いたのは江戸時代の盤珪禅師(ばんけいぜんじ)。その一番弟子は龍雲寺を創建した人物でもある。
盤珪さんは公案を不要としました。ありのままで悟りなのです。それは、それまでの禅の公案そのものを否定してしまうものにもなりました。しかし、ありのままで悟りと言っても、盤珪さんの優秀な弟子は公案にも取り組みました。公案を全て排除せず、大切なことは、答え合わせの公案ではなく、自分で答えを出すしかない、自分にとって大切な疑問を扱うことです。私にとっては同期の死が大きな問題でした。
臨済禅を世間にどのように布教していくか。修行に特化した公案ではなく、今を生きる人のための公案が大切です。人の悩みから離れ、理想的な解決法を語っても意味がありません。今を生きる人の根源的な問いに向き合っていく中で公案禅は息吹を復活すると思います。その意味で民衆に根ざした禅を説かれた盤珪さんの不生禅に一旦立ち戻ることが大切だと考えています。
野沢に地域密着する中、都市の様々な人の生き様や悩みに向き合う公案を創造する。禅の大家の家に生まれた血が騒ぐのか、公案禅の布教という使命感に細川さんは燃える。自らが公案を通じて出会うことのできた知恩報恩。その公案に対する恩に身を以て報いようとしているのかもしれない。