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おだやかな武庫川沿いの救いの場 – 妙昌寺 住職 村尾雄志さん(兵庫県尼崎市)

2019.01.11

 妙昌寺は尼崎市の武庫川沿いにある日蓮宗のお寺。

 阪神地区という日本でも有数の都市部にあるにも関わらず、お寺の前に立つと、おだやかで、ゆっくりと流れる武庫川を見下ろせ、河川敷を行き交う人々を眼下に、遠くは北に六甲山、東や南には大阪平野が見渡せる。風が心地よく、なによりも空が広い。

 また、武庫川にかかる武庫大橋や、対岸にある旧甲子園ホテルなどのモダニズム建築も目に付き、ホームページの言葉を借りるならば、「自然とモダニズムが薫る場所」に、人々の救いの場として妙昌寺は開かれた。

 妙昌寺では、葬儀、法要、水子供養、ペット葬儀に加えて、海洋散骨から終活までと、さまざまなことに対してアクティブに取り組んでいる。

 さらに住職の村尾雄志さんは、日蓮宗の僧侶として、100日間の大荒行、布教研修所、声明師、九識霊断を修めるだけでなく、臨床宗教師の資格まで有している。

 その行動力はどこからきているのか。ご自身の生い立ちから語ってくださった。

 

 

ここまで資格を持っている人も、そのことに全くこだわってない人も、多分いない

 

 村尾さんの実家は、舞鶴にある日蓮宗の寺院。長男として生まれ、11歳で得度、立正大学に進学し、20歳の時に信行道場を修了して日蓮宗の僧侶となる。26歳で大学時代に出会った奥さまと結婚し、平成5年、29歳でこの妙昌寺の住職に就任した。

 

住職12歳。僧風林で小僧の修行中の写真。住職は上の左から2人目

 

 そのころに、私は日蓮宗の僧侶としてのさまざまな修行を積んで、資格を取得してきました。おかげさまで今では、信行道場、僧風林、僧道林などの、宗門の教育機関で指導者としてもお呼びがかかっています。大変ありがたいことです。

 全ての日蓮宗の僧侶がここまで修行に励んでいるわけではないと思うし、その必要もないんですが、私の場合は、ただ行きたかったし、ただ学びたかったんです。大きな志を持っているわけではありません。だから、ここまでの資格を持っている人は多分いないだろうし、その資格に全くこだわってない人も多分いないんちゃいますか(笑)

 

 僧道林などで、僧侶の卵に向かって指導する時は、「お坊さんとは何か?」「どんなお坊さんになりたいのか?」と問うことを大切にするという。お経の読み方や基本的な所作はできて当たり前。それらが何のために必要なのかを、修行の過程で学ばなければならないことを力説する。

 

 結局ですね、修行を通じて自分のことを高めることも大事なんですが、一般の生活者に対して何ができるのかを僧侶は考えなあきません。修行が目的になってはならない。修行を終えてからが勝負なんですわ。

 

16歳の時、祖父と七面山登詣

望まれていることをきちんと受けとめて、どう応えるか

 

 妙昌寺の住職を任されてから、村尾さんは一般の生活者、目の前にいる人に対して何ができるのかを常に問い、自分の手でできることから形にしていったという。

 

 自分自身が何をしたいかじゃないんですわ。お寺として何を望まれているのか、何を求められているのか。これをきちんと受け止めた上で、自分でできることは自分自身の手で行おうと実践してきました。

 たとえば海洋散骨の場合は、まずはじめに、お檀家さんから散骨をしたいという相談があったんです。

 いろいろと調べてみますと、小型船舶の免許が比較的簡単に取得できるんですよ。これはいけるんじゃないかと。さらには、すでに散骨を行っている業者、役所、漁業組合や海上保安庁にも電話をして、自分自身で散骨をできるかどうかを片っ端から確認した。それで、「できる」と判断したんです。

 

 水に溶ける袋も自分で調べて調達し、粉砕機も購入し、予行演習も何度も行った。こうして始まった妙昌寺の散骨だが、ホームページには「檀家さん、もしくは紹介のある方に限り受付させていただいております」との文言が確認できる。

 

 ビジネスや事業とちゃうんです。散骨をしたいというお檀家さんの声があったから、それに対して何ができるかというところから始まった。散骨の良し悪しを論じる前に、お檀家さんの想いに寄り添ったんです。

 

 実際に船を出し、沖合で遺骨を海に還し、お経を読み上げると吐きそうになったと、村尾さんは笑いながら語る。

 

 船の上でね、お経を読むとどうなると思います? 吐きますよ(笑) 思った以上にぐらぐら揺れるんです。お経なんて読めたもんちゃいますよ。ほんのちょろっとのお経ですよ。でもね、お檀家さんは納得して喜んでくれた。お経の長さとかではないんです。お坊さんが自分で船を出して、散骨してくれて、海の上でお経上げてくれたって喜んで、納得してくださる。この納得こそが、大切なんです。

 

 ペットのお葬式も、檀家さんの家にいたペットがある日遺骨になっていたのを見て、「お寺として何かできないかと」いう想いから始まった。ペット専用の移動火葬車を保有している業者に協力してもらいながら、お寺でペットのお葬式を執り行っている。

 また終活も、司法書士などの専門家を交えてお寺の本堂で行っている。「来年からは終活カフェを定期的にしようかな」と未来のビジョンも語っていた。

 

臨床宗教師 ”声なき声”を聴きとれる存在として

 

 村尾さんは、東北大学の養成講座を修了した認定臨床宗教師でもある。臨床宗教師の研修では「傾聴」の大切さを学んだという。

 

 僕はこれまで、日蓮宗のさまざまな修行や研修を受けてきましたよ。でもね、それらは全て、教えをどう伝えるかという「話す」勉強だったんです。お坊さんって人の話を聞かずに話してばっかりでしょ(笑) 人に寄り添って、話を「聴く」という概念が、あのころはなかったですね。

 

  臨床宗教師とは、公共空間(病院や福祉施設や学校など)で、宗教的な悩みやスピリチュアルペイン(霊的苦痛)をケアする宗教者の取り組みとして、2012年から始まった。

  特に終末医療の現場で、スピリチュアルペインに苦しむ患者をケアする役割として、注目と期待が集まっている。

  臨床宗教師の基本的な態度は「傾聴」である。宗教師側からの布教をしない。ケア対象者の宗教性を尊重する。そのために、話すことよりも聴くこと、傾聴こそが大切とされている

 

  本当に大事なのは話す言葉を聞くんじゃないんです。話さなくてもその人から感じられるものってあるじゃないですか。喜びとか、悲しみとか、切なさとか、葛藤とかという、いわゆる声なき声ね。そしてこの声なき声ってのは、叫び声なんです。言わないけど叫んでいる。その叫び声を本当に聴けるかどうか。それが傾聴ということですよ。

 

 「聴く」ことの意義を力説した上で、臨床宗教師に関しては今以上にさらに大きな取り組みが求められると、あるべき未来に視野を広げる。

 

 臨床宗教師として呼ばれて、病院に行くのもいいんだけど、本当は、患者さんと僕らがもっと前からつながっていることが大事なんだと思うんです。終末期以外でも傾聴の場面というのはたくさんあるんですよ。普通でもお坊さんは、お檀家さんが入院したらお見舞いにいく、そして話を聴くことがある。これも立派な傾聴ですよ。お坊さんがきちんと学んで臨床宗教師となるのはいいことですけど、別に資格を取る必要はなく、お檀家さんが元気なうちからつながりを持っておくことこそが大事なんやと思います。

 

 

 村尾さんの日々の取り組みは、その「人と人とのつながり」をひとつでも多く作り、つながったご縁を大切にするためにある。

 

”皆共に、仏道を成ぜん” 大切な人に自分は何ができるのかな

 

 村尾さんはダイレクトに「人」に向き合う。それこそが妙昌寺の取り組みの源だ。

「仏教の教えを広めたい」「お寺を大きく発展させたい」「もっと檀家さんを増やしたい」というような考えよりもまず、ご縁のある人たちに何ができるか、どうしたら喜んでもらえるかばかりを考えている。

 菩提寺と檀家という”制度”や、散骨やペット葬儀という”事業”や、臨床宗教師という”取り組み”、いわばこうしたシステムよりも先に、ダイレクトに「人」に向かっているのが、何よりもの魅力ではないだろうか。

 

 仏教の言葉の中に、『皆共に、仏道を成ぜん』という言葉があります。この『皆共に』というのが、好きなんですよ。仲間意識。共同体。一緒に生きている人。そういう人と共に仏道を成す、つまり向上しあいたいんですね。散骨だって、本当にしたければ専門業者に外注すればいいんですよ。だけど、お檀家さんってのは、自分にとって大切な人だからこそ、自分が関わりたいし、自分に何ができるのかなって、考えちゃうんです。

 

 大切な仲間だからこそ、自分でできることは自分の手で。目の前の人にできることを尽くし続けて来た25年。葬儀も、法要も、水子供養も、ペット葬儀も、海洋散骨も、終活も、臨床宗教師も、すべては『皆共に、仏道を成ぜん』ための、小さな取り組みの積み重ねだ。

 

 そう言われてみるといろんなことをやってきたなあ(笑) でも、ここまでがんばり続けてこれたのは、妻の存在がとても大きいんですよ。妻は私の話をなんでも聴いてくれる。そういう存在がいるからこそ、自分も人の話を聴けるんやと思います。

 だから、ここまでいろいろアクティブに行動し続けているのは、決して使命と思ってやってないです。やらなきゃいけないことをやってきただけ。使命とか、ビジョンとか、そんな大きいことじゃなくて、「いま目の前で困っている人にどう応えようか」の連続でここまで来ている。そんな感じかな。本当に『皆共に』なんですよ。

 

「最後に”まいてら”をご覧の方にメッセージをお願いします」と訊ねると「そんなものはないよ」と笑いながらかわされた。しかし、この「そんなものはない」の中に、村尾さんの人柄や信念が詰まっているのだったということに、すぐに気づいた。

 

 みなさんは、いつどんな時に幸せを感じますか? それを考えてもらいたいですね。あなたの話をちゃんと聴いてくれる人はいますか? 私からはみなさんにメッセージなんて、本当にないんです。ただ、もしもみなさんが何か聴いてほしいことがあれば、いつでもうちに来てください。私でよければ、お話を伺いますよ。

妙昌寺は、穏やかに流れる武庫川沿いにある。空は広く、風が心地よく感じられる。

 

 ご縁ができた人たちと共に向上し合いたい。村尾さんのこの言葉を表す一枚の写真が、妙昌寺のホームページの中にある。

 そこには、「お寺のスタッフを紹介します」と書かれ、村尾さんと奥様と並んで、お寺の役員の人たちが一緒に映り込んでいる。

 何気ない一枚の写真。しかし、お寺のホームページにこうしたアットホームな”仲間”との写真を載せてしまうところに、村尾さんの人柄、お寺の姿勢、そして村尾さんとお檀家さんとのつながりがにじみ出ている。

  インタビューが終わるころ、ひとりのお檀家さんがお参りに来られた。

  お茶を飲みながら、同じ目線でお檀家さんの身の上話を聴く村尾さんの姿は、まるで目の前を流れる武庫川のように、ゆっくりと、おおらかで、おだやかだった。

お寺画像
兵庫県尼崎市
国龍山 妙昌寺
生老病死に寄り添うお寺

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とむらいマン

とむらいマン

1981年生まれ。家族の立て続けの死をきっかけに、生涯を「弔い」に捧げています。葬儀社、仏壇店、墓石店に勤務して13年。供養業界に携わりながら、祈りや弔いの素晴らしさを言葉を通じて発信しています。 「この世を生きるということは、亡くなった人とともに生きることなんだよ」ということを、私たちはついつい忘れがちです。お寺は、そんな大切なことを思い出させてくれるとってもありがたい場所です。お寺の魅力を発信することで、祈りや弔いの素晴らしさをお伝えできればと思います。

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