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楽しさと”ホッ”にあふれた「お寺ライフ」を届けたい ー 髙願寺 住職 宮本義宣さん(神奈川県川崎市)

2019.04.14

体験メニューの多い古刹

東急東横線とJR南武線・品鶴線(新宿湘南ライン)の武蔵小杉駅からバスで5分ほど。
「市営等々力グラウンド入口」停留所を降りると、こんもりとした森と、反りが美しい本堂の大屋根が見える。髙願寺は、浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院だ。
早春のこの日、境内に入ると、満開の紅梅に迎えられた。街場のオアシスに入り込んだようで、「ふ〜」と安堵のため息をついた。

住職の宮本義宣さんは、開口一番、軽やかな口調でこう話す。

散歩に来ていただくのも歓迎です。枝垂れ桜が咲くのを楽しみに、お花見に来る方々もいらっしゃるんですよ。どなたにも「居心地がいいな」と思っていただけるお寺を目指しているんです。


1300年代中期に、足利尊氏と戦った新田義貞の子・義興(よしおき)、義宗の家臣らの霊を弔うために草庵が設けられたのがルーツという古刹だ。歴史の痕跡は、本堂の裏手に広がる墓地にも残っている。

江戸時代前期に、川崎市で最も古い寺子屋がここに開設されており、1760(宝麿10)年没の寺子屋の手習い師匠「寿毫堂(じゅごうどう)」の墓がある。そこには「筆弟二百一人」と刻まれており、大勢の民衆の子弟たちが通ってきていて、寺がいかに時めいていたかが窺える。

江戸時代建立のお墓もずいぶん残っていますが、新しくお墓を建てられる方もいらっしゃいますよ。アメリカとドイツ在住の姉妹もご両親のお墓を求められ、毎年、帰国のたびにお墓参りに来られています。先日も、大きなスーツケースを持って「今から成田です」と。当寺を「両親の弔いの場所」、もっと言うと「自分たちが帰る場所」と思ってくださっているんです。

一生涯を同じ町で暮らした時代の人たちは、シンプルにその町の寺を拠りどころにできたが、居住地が広がりを見せるようになってこのかた、それが難しくなっているのは承知のとおりだ。

「地球儀の規模で言うと、アリの目で見るか、タカの目で見るかの違いだけだと思うんです」と宮本住職。髙願寺が、世界を「タカの目」で見る海外在住者のメモリアルな場所となっているとは、天晴れだ。

本堂には、柔和なお顔立ちの本尊、阿弥陀如来がいらっしゃる。手を合わせた後、ふと見上げれば、欄間にはお釈迦様の一代記が掘られ、格天井(ごうてんじょう)には一枚一枚手書きの彩色絵が描かれている。

境内で、「すごい」と思う建物は、それだけではない。「至心學舎(ししんがくしゃ)」という趣きのある建物にも目を惹きつけられる。

至心學舎は、新潟の古民家を移築したものでしてね。仏事だけでなく、「楽しいお寺ライフを」をコンセプトに、館内で音楽会やヨガのレッスンなど様々なメニューをご用意しています。
昨秋、新たに始めたのは、「おとりよせ市場」と名付けた会員制の共同購入です。「美味しい、安い、珍しい」をキーワードに、生産者から直接選りすぐりの産物を購入し、会員さんに取りに来てもらっているんですよ。

「お寺ライフ」「コンセプト」「キーワード」などと、お坊さん然としない言葉が一気に飛び出し、曰く、寺の「メニュー」も面白そう。

気軽に「宮本さん」と呼びたくなるようなお人柄が透けて見えるため、ここではそう呼ばせていただくことにする。いったいどんな人なのか。

「どうせお坊さんになるんでしょ」と、女の子から一撃

まずは、経歴からーー。

1962(昭和37)年、生まれ。姉二人がいる末っ子の長男だ。子どもの頃、祖父が住職を務め、父は都市社会学を専門とする大学教授と僧侶を兼職していた。

小学校高学年になると、「自分も父のように僧侶と他の仕事を兼業することになるだろうな」と漠然と思い、弁護士になりたかった。弁護士なら同じ文系だから僧侶と兼職が成り立つだろうと子ども心に考えたからだという。

ところが、ある時、クラスメートの優秀な女の子から、「どうせお坊さんになるんでしょ」と、衝撃の一撃を食らったんです。お坊さんにしかなれないあなたが、何になりたいと夢を抱いても意味ないでしょ、というニュアンス。それからです、(寺の子であることが)コンプレックスになるのは。お寺なんか継ぎたくないと思っていたんですよ。

幸い、父から「寺を継げ」というプレッシャーはなかった。

都内の中高一貫校へ進み、地理研究部、テニス部、陸上部、アメフト部などに入って楽しんだ。経済学部に進んだ私大でも、アイスホッケーに夢中になる。

一方で、デザインや絵画に興味を持ち、美術学校にもダブルスクールをして通い、デッサンやグラフィックデザインの勉強にも励んだ。

仏教を否定的に捉えていた高校時代。アメフト部で活躍した(一番右が、宮本さん)

「寺を継ぐ」から背を向け、仏教全般をも否定していたのは、「葬式仏教のイメージが嫌だったからかも」と宮本さん。19歳のときに祖父が他界し、父が住職に就いた。それからまもなく本堂が火災に見舞われ、父が苦労して再建を果たす。

そんな時期だったが、「髙願寺は長姉か次姉が継ぐだろう」とゆるく考えていたと振り返る。

ところが、図らずも心持ちが変化する時がきた。

「せっかくお寺に生まれたんだから、仏教の勉強くらいしておいてもいいのでは?」と父に勧められ、大学時代に「勉強だけなら」と宗門の通信教育を受けたんです。で、勉強すると、「仏教の教えは論理的で、生きるための知恵が詰まっている」と分かって。「仏教の教えを人に伝える仕事を生涯やってもいいかも」と考えるまでになったんです。

もっとも、アイスホッケーと美術学校通いに忙しかったその頃、仏教の優先順位はまだ低く、僧侶になるために必要なスクーリングに行く時間を捻出できなかった。そのため、宗門の「得度考査」を受けて合格し、僧侶になる。

今、若いお坊さんたちの教育の立場にいますが、お寺の子息には、いやいや継ぐ人と、「浄土真宗バンザイ」的な感覚で進んで継ぐ人の2パターンがありますよね。いずれも、宗門学校で修学し、資格もきちんと取得して実家のお寺に帰ってくる人が増えていますが、多くは社会経験に乏しく、門信徒や一般の方々とうまくコミュニケーションが取れるだろうかと懸念しています。

「いやいや」から「進んで」への移行期に大学を卒業し、美術学校での学びも終えた宮本さんは、大手の車補修メーカーのデザイン室に勤め、広告企画の提案やデザイナーのアシスタントといった仕事に2年間従事する。

その後、結婚を機に、27歳から本格的に僧侶の道を歩むことになる。

宗門の方針の旗振り役を13年

父(住職=当時)を補佐し、法事などを手伝いつつも、宮本さんは浄土真宗本願寺派の活動に取り組んだ。

まず東京教区教務所である築地本願寺を拠点に、続いて本山(西本願寺)に活躍の場を移して「運動」に邁進する。宗派全体で取り組み、社会に発信する「基幹運動(後の「御同朋の社会をめざす運動=実践運動」)「布教伝道活動」などを担ったのだ。

「例えば」と、挙げてくれたのは環境問題について。親鸞の時代にはなかった概念だが、宗派として取り組むべき社会にコミットする課題として、経典や親鸞が遺した言葉にヒントを見つけることから運動が始まるという。

簡単に言うと、「もったいない」という感覚が経典に解かれています。すべてのものは仏様からの頂き物だから、粗末にしてはいけないと。そこから、使い捨て文化はいかがなものかと考察します。「もったいない」は、経済発展と真逆の考え方ですが、環境問題や共生の問題に、ひいては平和につながる。なので、生活レベルで仏教的な生き方をしようと伝えていくわけです。

シンポジウムに登壇する宮本さん

宗門の方針を各地域に伝える旗振り役として全国を回り、宗派寺院の住職らと侃々諤々、膝を突き合わせる日々も送ったという。浄土真宗の教えを深く掘り起こし、一般社会と広くリンクするーー。

13年間のそんな経験知が、2002(平成14)年、父が病に倒れたタイミングで髙願寺の僧侶専業になった後、大いに生かされる。

古民家移築とお寺コミュニティ改革

宮本さんは、まず、境内の整備に着手した。

2002年当時、道路(府中街道)に面してその15年ほど前から葬儀式場として使われてきた建物が建っていた。それは、地域に先駆けたもので、周辺の人たちに重宝されてきたが、老朽化と市内に同様の建物が増えたため、一定の役割を終えたと取り壊すことにしたのだ。これによって、入り口が分かりやすくなり、境内地も拡幅された。

フェンスも戸もなく「誰にもオープン」な入口

しかし、門徒らの仏事を行うための新たな場が必要となり、先述した「至心學舎」を古民家移築という方法で設ける。こんな発想からだった。

仏事オンリーの建物ではもったいない。多目的に使えて、誰もが居心地よく、ほっとできる“器”を造りたい。

折も折、古民家ブームがきていた。宗派の「運動」で地方を巡ったときに、各地で「古い建物が取り壊されていく」と聞いていたことが頭にあり、修復が得意な建築士に持ちかけ、売りに出ている古民家を探してもらったのだ。

新潟県の古民家を4軒ほど紹介され、写真を送ってもらいました。さっそく見に行き、柏崎にある理想の1軒に出会ったんです。築100年、6間×11間(約11㍍×約20㍍)もの民家。住んでいた方は、全体の3分の1ほどを改装して使っていただけで、あとは建ったときから手付かずの状態でした・・・。

一目で気に入ったその建物を解体して運び、元どおりに建てる。大変な工程を経て、親鸞の言葉から「至心學舎」と名付けた建物が竣工した。

築100年の古民家が見事に蘇った「至心學舎」の礼拝堂

2010(平成22)年10月に行われた落慶法要に、約150人にものぼる門信徒ら髙願寺に所属意識を持つ人たちが駆けつけ、喜びを分かち合った。

約150人と多いのは、この移築と並行して、宮本さんは旧来の門徒の概念を超えた制度作りに尽力しており、髙願寺にゆるやかな所属意識を持つ人たちが増えていたためである。

「至心學舎」落慶法要後のレセプション。フレンチビストロの料理を用意したのも宮本さんならでは

お墓は田舎にあるが、仏事は髙願寺に頼んでいる『隠れ門徒』のような方や、逆にお寺の名簿に載っていても所属意識が曖昧な方がいると気づいたんです。そこで、出入り自由なメンバーシップ制の門信徒会に変えていったんですね。年会費? 境内にお墓がある場合は7000円、ない場合は3000円。結果、500人から700人に増えました。

お寺本来の多機能を取り戻したい

至心學舎を案内してもらった。
2階まで吹き抜けの礼拝堂、田の字に配された畳の部屋など、連綿と紡がれてきた空気感を感じずにはいられない。建材の木も土も呼吸しているようで、こちらの呼吸まで穏やかになるではないか。

宮本さんは、この空間の利用を「どなたでも」とオープンにし、定期開催のヨガのレッスン、音楽会のほか、ビッグバンド率いるシンガーソングライターのライブ、医師の講演会など、これまでにいくつものイベントを開催してきている。

シンガーソングライター二階堂和美さんらを迎えた「十三夜音楽会」

なるほど、最初に聞いた寺のコンセプト「楽しいお寺ライフを」そのものだ。昨秋に始めた「おとりよせ市場」というのは?

「宗門の運動をしていたから、私は全国の僧侶とネットワークがありますが、住職自身が畑を持っていたり、門徒さんに特産物を作る人がいるお寺も少なくないんです。なので、佐賀の一番海苔、北海道・蘭越のお米、山梨のぶどう、ワインなど、手前味噌ですがすごく美味しいものばかりをラインアップし、もう10回くらいやって、ずばり好評。目下、会員は約50人です。

斬新な企画だ。

さらに、境内の一角に雅な建物を普請中だが、竣工後、この秋から「精進料理レストラン」を始める予定だとも、来年のオリンピックで寺のすぐ前の等々力緑地公園をキャンプ地にするイギリス選手団に、境内でお茶や軽食を供したいと川崎市に申し出ているとも。

聞けば聞くほど、名プロデューサーだと思えてくるが、宮本さんはこうも口にした。

“メニュー”を増やしているのは、お寺本来の多機能を取り戻したいからなんですね。

宗教空間としての荘厳さに満ち、敷居が低く、ときに楽しく、ときに癒される空間。何か起こったときに「行ってみよう」「相談してみよう」と足を運ぶーー。人々が三三五五集まってきたかつての寺の現代版を、宮本さんはつくろうとしているという。

一定年齢以上になると、中学や高校の同窓会の参加者が増えるでしょう? しばらく離れていても、ふと懐かしくなって、地元に帰って同窓会に参加する。お寺って、そういうところでなければと思うんです。今の世の中、あらゆるスピードが速まっているのに対して、お寺の時間軸は長いから、いつ帰っても元のメモリアルが残っているところ。そのメモリアルは、境内の散策であっても、お墓参りであっても、年中行事やイベントの参加であってもいいわけです。

プロデューサーと住職の“貌(かお)”が、きっかりと重なる言葉だった。

お寺画像
神奈川県川崎市中原区
覺王山 高願寺
川崎最古の寺子屋発祥のお寺

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