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元熱血教師のいちずな想いは、ご霊水のように湧き続ける- 法華寺 住職 庄司真人さん (大阪府河南町)

2020.02.19

取材・文 玉川将人

580年、涸れずに湧き出るご霊水

「ここがこのお寺の聖地なんですわ」と、住職の庄司しようじ 真人しんじん さんが一番はじめに案内してくれたのは、境内けいだい の裏山を100メートル近く歩いた先にある水原みずもと 堂。580年もの間、涸れることなく湧き続けている霊水の湧き出し口だ。「この山には神仏がおられます」と語る庄司さんは、毎朝このお堂に来ては、その神仏に向けて読経をしている。

境内から西へ100メートルほどに位置する水原堂

「せっかくなので」と、短いお経を一巻読み上げてくれた。りんの音、木柾もくしよう のリズム、野太い庄司さんのお経が山の空気に清められ、身体の中で木霊こだま する。室町時代、この地を訪れた日隆上人にちりゆうしようにん が日照りに苦しむ村人たちのために法華経を祈念したことによって水が湧き出し、法華寺は建てられたとされる。

 大昔からさまざまな人たちがこの山の空気を吸い、神仏に感謝しながら、ありがたい水のご加護にあやかってきたはずだ。「ここには、時代を超えても変わらないすばらしさがたくさんありますね」と伝えると、気恥ずかしそうに「大阪といってもここは田舎寺ですが、コンクリートやアスファルトに囲まれた生活では忘れてしまうような、本来心の中にあるはずのものを呼び戻せます」と語る。

自然ゆたかな山に抱かれた本堂

 水槽のそばに置かれている紙コップでぐいっと飲み干すと、色も味も澄みきった霊水が身体のすみずみにまでにしみわたる。水質基準51項目の検査もクリアしているほどにきれいな水は、いまでも多くの人に愛され、遠方から みに来る人も少なくない。庄司さん自身も、このご霊水の力に引っ張られて、法華寺にやってきたのかもしれない。

水原堂から湧き出たご霊水は、地下を通り、庫裏脇のこの水槽に流れ込む

その場でご霊水を飲むこともできる

中学教師として荒れる学校現場で18年間

 庄司さんはもともと大阪・茨木いばらき 市にある別のお寺に生まれたが、先代住職である父が法華寺の住職に就任するのに合わせて、12歳の時に河南町かなんちよう に引っ越してきた。若いころはお寺を継ぐことへの葛藤が大きかった。お寺の手伝いもつらかったし、父がとにかく厳しかった。「遊びに行きたくても、ハンドボール部の試合があっても、『寺の手伝いをしろ』です。よく殴られもしましたし、こんな思いするなら寺を継ぎたくないと思ってました」

小学校1年生の頃

高校時代はハンドボール部で活躍

 とはいえ庄司少年の方も負けてはいない。「好きなこと、得意な科目はとことんするんですが、高圧的な先生や気に入らない授業はサボる。私みたいなもんは他にはおりませんねん。いわゆる「けったい」な奴でしたけど、まあ、友達だけはたくさんおりました」と笑う。「けったいな」とはこの地のことばで、「変な」「妙な」といった意味だ。

 お寺を継ぐことを心の底に沈めて、庄司少年が、なりたいと心に決めていた職業は教師だった。心に湧き起る「これからの子ども達の将来を支えたい」という思いから、23歳で中学校の教員になってから41歳まで猛烈に働く。庄司さんの言葉を借りるならば、「100メートルダッシュを繰り返すような生活」を、勤務の日は朝7時前から22時、23時まで、18年間、毎日のように続けたという。

 時代は校内暴力が社会問題となっている頃。暴力や不登校が目の前にある学校現場ではごまかしがきかない。当時マスコミにも取り上げられたほどの荒れた中学校に赴任した庄司さんは真正面から生徒や親たちと取っ組みあった。うまくいかないことはたくさんあったが、それでも教員の仕事は充実していた。「やりがい、生きがい、感動そのものでした。部活でも、合唱コンクールでも、子どもたちとよう泣いて、抱き合いました。一番大事にしたのは、よくわかる楽しい授業。深夜まで翌日の授業の準備に没頭しました」と、当時を嬉しそうに振り返る。

中学校教員として新任間もない頃。バスケットボール部の顧問だった

41歳からスクールカウンセラーに お寺との両立めざし奔走

 教員の仕事に全身全霊を注ぐ中で、父が住職を務める法華寺への関わりは、お盆やお彼岸など繁忙期の手伝い程度だった庄司さん。僧侶としての自分を封印し、葛藤に気づかないふりをしながら、目の前の子ども達のことに全力を注いでいたが、41歳の時に教員を辞める決断をする。「それはまるで神仏のお告げのようでした」と、不思議な体験を語ってくれた。

「これまでずっと元気だった父が帯状疱疹たいじようほうしん で入院している時のことです。ベッドの上で朦朧とした父が私を指さして『なんでオヤジがここにおるんや』と何度も言ってきたんです。私を見て、亡き祖父だと言い張るわけです」

 庄司さんが生まれる18年前に亡き人となっていた祖父。幼いころから僧侶としての祖父のエピソードを聞いてきたこともあり、生きて会ったことも話したこともない祖父を不思議と身近に感じてはいた。また、成長するにしたがって、なぜか写真の祖父の面影を追うようになっていることも不思議だった。

「その日、父に見間違えられたことにより、祖父の霊魂というか魂のようなものが、私の身体の中にズドンっと入り込んできたんですわ」と、これが人生のターニングポイントとなる。材木問屋の経営を投げうって仏道に進んだ祖父と同じように、仏道に導かれていると直感した。

祖父の行法院日経上人。現在の庄司さんとそっくりだ

 しかし庄司さんは教育との関わりを全て投げうつことはできなかった。「つらい思いをしている子どもや親に関わる仕事も続けたいと思ったんですよ」と、悩み抜いた挙句に庄司さんが出した結論が、スクールカウンセラー(以下:SC)になることだった。SCは、児童や生徒だけでなく、保護者や教師の心のケアを行う専門家だ。しかし、SCになるには、心理系の大学院を卒業し、臨床心理士の資格を取得し、採用の難関を突破しなければならない。庄司さんは心理学の素人。でもSCがお寺との両立の唯一の道。どうする。

「私は思い込んだら一途いちず なところがあります」と語る庄司さんの努力には、凄まじいものがあった。

 64歳で念願の医師になった元主婦がいると、新聞記事の中に見つけたときに、「オレはまだ41歳。いけるわ」と火がついた。昼間はお寺の仕事をこなし、夜になると毎晩、神戸市内にある兵庫教育大学のサテライトキャンパスまで通い、勉強した。退職と同時に、お酒を止めて肉食も止めた。「僧侶を新たな生業なりわい にするなら、とことんやろう。今からできることは、全力でやろう」そう思い、冬の3か月間は毎朝の水行みずぎよう も始め、以来16年欠かさない習慣になっている。

冷たいご霊水を浴びる、冬の水行

 一方、心理学の専門的な勉強はぜんぜん追いつかない。しかし、サテライトキャンパスの仲間に恵まれ、彼らと協力しあって講義の内容を教えあうようになった。12人いた生徒のうち11人が合格したが、これは例年ではあり得ないことだったようだ。「奇跡ですよ。大学院生たちと一緒の教室だから合格できたようなものです」

 SCは非常勤という雇用形態がほとんどなため、午前中と土日はお寺の仕事、午後は学校現場という両立ができた。月~金の午後は大阪府下の学校の支援に走り回る生活を約10年ほど続けたが、やがて父も高齢となり、平成30年4月に住職に就任。以降は週3日程度の勤務に減らしつつ、SCとして、いまも学校現場に足を運んでいる。

SCとして、教師に向けた講演を行う様子

夫婦で「千里の道」を行く

客殿からの景観

 法華寺の客殿は南に面し、大きな窓からは河内かわち 平野が一望できる。暖かい日差しと澄みきった初冬の青空を眺めながら、庄司さんの「けったいな」話を聴いていると、妻である早智子さちこ さんがお茶とお菓子を運んできてくれた。同じ高校の一学年先輩だった早智子さんとは、教員になって3年後の26歳の時に結婚した。

 ぜひとも妻の立場から見える庄司さんについて話を聞かせてもらおうと、まずは教員を辞めて大学院の夜間コースを受講したという庄司さんの行動について訊ねてみた。開口一番「みんな『大学院落ちたらいいのにね』と言ってました」と語る。「だって、大学院はお金かかりますし、そのころは2人の息子の学費も要りましたからね」と、至極真っ当な回答。資格の取得は狭き門である上に、あと2年教員を勤めていればもらえた恩給の権利を蹴って心理学の道を駆け出したというのだから、早智子さんの気苦労は察するに余りある。それでもふたりはお互いの半生を振り返っては笑いあう。

「さっちゃんがいたからここまで来られました」と庄司さん。「いまから思うと身勝手なことばかりしてきましたが、それでもちゃんとこちらの話を聴いて、受け止めて、ほめてくれる人です」

 早智子さんに「住職はどんな人ですか?」と聞くと「エネルギーがすごいんで、こちらは大変です」と笑いながらこう続けてくれた。「けったいな人ですが、ユーモアもあって、頼りになりますし、グイグイ引っ張ってくれます。子どもも好きで、わずかでも仕事のすき間ができるといろんなところに連れて行ってくれました」

 子どもたちがまだ小さかった頃は、家族でキャンプやスキーにも行った。いまでも時間に余裕があれば夫婦で旅行に出かけているが、いまふたりが揃って熱中しているのが、歌手の浜田省吾はまだしようご さんだ。実はインタビューの中で一番盛り上がった話題だ。

「とにかく60歳を超えても格好良くて、自分のファンを大事にしながら社会に向けたメッセージを発し続けているところが、素敵ですよねえ」と、いまだ第一線で輝くスターに頬を赤らめる早智子さんの横で、庄司さんは浜田省吾さんの語る『千里せんり の馬』のエピソードに自身を重ねる。

「『千里の馬』ということわざは、本来は、千里を駆ける馬がいてもその馬が名馬だと見抜ける人がいなければ才能は埋もれてしまう、というような意味なんです。ところが浜田さんは、生まれつきダメな駄馬だば であったとしても、もしも千里を走ったならそれで千里の名馬になるのだと勘違いされていた。でも彼はその自分流の解釈に励まされていたんだそうです」

妻の早智子さんと

 教員として、SCとして、僧侶として、どうしてそこまでがんばれるのか、千里の道を走るのか。言葉を変えながらさまざまな角度から尋ねてみても、「なんでや言われても困ります。自分でもわかりません」とその理由は明確な言葉として出てはこなかった。

「とにかく教師になりたかった」「困っている人を見るとほっとけない」「この混迷の時代だからこそ、31代目の住職として責務を果たしたい」理屈より先にあふれ出る想い。それはまるで、涸れることなく湧き出る法華寺の霊水のようだ。そして最後には、決まったように、自分自身をこう表現した。「いや、ほんまに私、一つのこと考えたらそのことしか考えられない、けったいな奴なんです」

インタビュー後、檀家さん向けの終活セミナーが開催された
お寺画像
大阪府南河内郡
取要山 法華寺
霊水の湧く寺院 (筧の霊蹟)

寺院ページを見る

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玉川 将人

玉川 将人

1981年山口県生まれ。家族のたて続けの死をきっかけに、生涯を「弔い」に捧げる。都内の葬儀社に5年間従事したのち、現在は仏壇墓石の素心(兵庫県姫路市)に勤務。供養業界に携わりながら、ライター「とむらいマン」として活動。1級葬祭ディレクター、2級お墓ディレクター、2級グリーフケアカウンセラー。 「この世を生きるということは、亡くなった人とともに生きることなんだよ」ということを、私たちはついつい忘れがちです。お寺は、そんな大切なことを思い出させてくれるとってもありがたい場所です。お寺の魅力を発信することで、祈りや弔いの素晴らしさをお伝えできればと思います。

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