二佛並坐 ‐ 本休寺 住職 岩田親靜さん(千葉県千葉市)
2019.12.30
お寺ならではの、味わいや含蓄 ある「ことば」をお坊さんに教えてもらう本シリーズ。日蓮 宗本休寺 (千葉県千葉市)住職・岩田親靜 さんが今回紹介してくれるのは「二佛並坐 」。佛像 のかたちをあらわすこの言葉には、どんな意味がこめられているのでしょうか。
法華経の「ある場面」をあらわしているご本尊
日蓮宗の寺院でご本尊として安置されている佛像の多くが、このかたちをとっています。ただ見るだけでは、何を示しているのか、意図が伝わりづらいかたちかもしれません。
まんなかには、お題目 、つまり「南無 妙法蓮華経 」が書かれた塔があります。向かって左が釈迦佛 (お釈迦様)、右が多宝佛 (「多くの宝を持つもの」の意。お釈迦様よりも前に悟りを開いた過去仏 を指し、すなわち仏となった死者)です。
二佛並坐は、『法華経 』に記された、ある場面をあらわしています。
まず、お釈迦様が説法をしていたところ、大地から巨大な宝塔が出現します。宝塔とは金、銀、琉璃 、琥珀 、赤真珠 、水晶の七宝で飾られた巨大な塔で、多宝佛の偉大さを表しています。
その宝塔の中から、今までお釈迦様(釈迦佛)が説いてきた教えを「その通りです」と証明する声が聞こえてきます。その声を聞いた釈迦佛は空中に浮遊し、宝塔を開くと、その中には多宝佛が座っていました。釈迦佛が宝塔の中へ入りますと、多宝佛は、これから弟子たちに自分の教えの真意を説かんとする釈迦佛に、席を半分譲ります。この場面で、釈迦佛と多宝佛が並んで坐って一体化します。
この場面は、何を示しているのでしょうか?
それは、過去の修行者たちの英知や努力の蓄積の上に、釈迦佛の悟りがあるということです。いま生きている我々も、先祖を含めた過去の人々の英知や努力の上で、現在の生活を営んでいます。過去からの流れの中で、いまを生きている。亡くなられた先祖と我々はつながっている。自分たちだけで生きているのではなく、死者も含めて多くの人々の関わりがあって生きている、そのことをこのご本尊は示しているんですね。
桜井和寿さんが歌詞したミスターチルドレンの「旅立ちの唄 」という曲に、こんな一節があります。
疲れ果てて足が止まるとき 少しだけ振り返ってよ
手の届かない場所で 背中を押してるから
(中略)
背中を押してるから でも返事はいらないから
存在を肯定し、背中を押してくれるものでありながら、返事を欲しない。それは我々にとっての先祖や死者にも当てはまるような気がします。
我々は生きていくことに否定的になりやすく、肯定観を持ちづらい時代を生きています。それゆえに、自分の存在のルーツを確認し、一人で生きているのではなく、先祖や死者も含めた多くの人々の縁の中で生かされていることを感じる必要があるのではないでしょうか。
多宝仏が席を半分譲って座っているのかな?二仏が接触してた方が並座になると思うが。
さとりは真実かまたは確定するのか?
ギャンブルの予想はさとりでわかるのか?
独裁者はさとりを開いた宗教者か?