動物をひいてしまって供養した体験談。飼い主のない動物の死骸はゴミなのか?命と優しさについて考えさせられた2日間(宝泉寺住職・伊藤信道)
2021.04.12
伊藤信道(いとうしんどう)
1955年(昭和30年)津島市生まれ。龍谷大学文学部仏教学科卒。大学では陸上競技部。アーユス仏教国際協力ネットワークや名古屋NGOセンター創立に関わりました。また、僧侶育成機関「宗学院」講師を勤めます。
車を運転している時に動物を轢いてしまったら、あなたはどのように行動しますか?
私にはひとつ忘れられない出来事があります。運転中に轢いてしまった動物を車に乗せて、ある方が宝泉寺まで来られたのです。
動物をひいてしまった男性が駆け込まれ供養した体験談
ある日の朝、時刻が7時を回ろうとする頃、お寺のインターホンが鳴りました。「こんな時間に珍しいな」と玄関に出てみると、そこには30歳くらいの真面目そうな男性。緊張した面持ちで、こう言われました。
「犬を轢いてしまったのです」
学校の先生をされているとのこと。轢いてしまった犬を置いて走り去るわけにもいかない。でも犬をどうするべきか分からない上、学校にも早く行かなくてはならない。オロオロしているところ、自坊の屋根が見えたのでしょう。まさに駆け込み寺として宝泉寺にやって来られたのです。
山門のかたわらに行ってみると、そこには白い布で包まれた犬。私はお寺の中から手頃な段ボールを探してきて、男性とともにその中に納めてあげました。そして、「明日必ず来ますので」と言い残し、男性は犬の遺体を私に預けて学校に向かいました。
「飼い主がいなければゴミとして処理します」という衝撃
さて、犬の遺骸を預かったもののどうするべきか。お寺で埋葬というわけにもいかないので、私の手で保健所に持って行こうと決めました。
これから火葬にされるだろうから、火葬の前に読み上げるお経の『舎利礼文』で犬を弔い、それから窓口である市の清掃事務所に電話をしてみると、次のように言われました。
「飼い主がいなければゴミとして処理します」
ゴミ。
とてもショッキングな言葉として、私の心に「グサっ」と刺さりました。てっきり火葬してもらえるものと思っていたのですが、飼い主のいない動物の遺骸はゴミとして処理されるのです。
それでも仕方ありません。私は午前中のうちに清掃事務所に出向きました。「その辺に置いていてください」というインターホン越しの指示通り、段ボールに入った状態で犬を置き、その場を去りました。職員の方の顔を見ることもありませんでした。
翌日、男性は約束通りやって来て、丁寧にお礼を述べられました。前日よりは落ち着いていましたが、やはり犬のことを心配している様子。「犬を市の方にきちんとお預けしましたよ」とお伝えすることで少しホッとされた様子でしたが、やさしい心の持ち主である男性のことを想うと、どうしても「ゴミとして処理された」とは言えませんでした。
「ゴミ」という言葉への戸惑いと、男性の心のやわらかさ
人間は動物の命に価値をつけてしまう生き物なんだと痛感させられました。大切なペットの供養はしたいと思っても、ペットではない生き物にまで心を配ることはなかなかできません。
清掃事務所の方の言葉が引っかかるものの、それを責めることはできません。その方もすべき仕事をしているだけ。日頃の業務の一環として飼い主のいない動物の遺骸を決められた方法で扱ってくれているのです。とても尊いお仕事だと思います。
ただ、この一連の出来事で救われたことがあります。
遺骸をお寺まで持って来られた男性のやさしい心は、一つの光明です。朝の忙しい時間に、わざわざ動物を抱きかかえて車に乗せ、このお寺までやって来られた。そのやさしさに救われた想いがします。中には轢いたまま走り去ってしまう人もいることでしょう。
そして、どうしてよいか分からない時に、お寺に駆け込んでくださったこと。命を扱う場所としてお寺が認識されていたことを改めて教えてもらいました。お寺は弔う場所、命の尊さを与えている場所なんだと。
この話に答えはないと思います。飼い主のないペットの死骸はゴミとして処理される。悲しい現実です。
ただ、男性のように命の尊さを感じる心のやわらかさを持ち続けていたいものです。あの緊張した面持ちの奥にあるやさしさが、いつまでも忘れられません。