LOVEあんどPEACE ‐ 正太寺 住職 大河戸悟道さん(愛知県豊橋市)
2016.08.19
◆「LOVE」と「PEACE」はひとつのはたらき
大河戸 悟道(おおこうど ごどう)
1961年(昭和36年)正太寺に生まれる。名古屋芸術大学洋画課卒業。アパレルメーカーや立体造形工房、建築関係等勤務。 2003年(平成15年)正太寺住職を拝命。以後、楽しいお寺、気軽なお寺、安心なお寺を目指し日々研鑽中。
こんにちは。愛知県豊橋市の真宗高田派・正太寺住職の大河戸悟道です。今回は「LOVEあんどPEACE」ということばについて、私の思いをお話ししたいと思います。
「LOVE」と「PEACE」は、直訳すると、それぞれ「愛」と「平和」になります。しかし、私は前者を「慈悲」、後者を「安穏」として見ています。それらは、別々のものがふたつ並んでいるのではなく、互いを成り立たせ合っている「ひとつ」のはたらきであると考えているからです。どうしてそのように考えるようになったのかを、簡単にお話ししましょう。
◆人間は誰でも100パーセントの正しさを持つことはできない
まずは「LOVE」=「慈悲」。これは優しさや思いやりのことですが、ここでは「大慈悲」の心をイメージしています。人間が抱く思いやりの心ではなく、あくまでも仏さまが私たち人間にかけてくださるものが「大慈悲」であると、浄土真宗では教えています。
経典には「(仏は)すべての衆生を救う」といった記述があります。「すべての」ということは「誰でも」ということです。誰でも救ってくださるから、この私も救われるのです。仏さまは、私が正しい人間だから救うのではなく、私が迷いの中にあり、ときには過ちを犯してしまう存在だからこそ、そのまま救い取ってくださるというのです。私はここに、とてつもなく大きな「LOVE」を感じます。
私はすぐに自分を正義の側に立てようとします。そして正義の立場になると一方的に他を責める恐ろしい心が湧いてきます。しかし、仏さまの「LOVE」=「慈悲」によってその姿に気づかせていただいた瞬間、そこには自分も他人も「ともに凡夫(※1)」という世界が見えてきます。そこに「救い」があるように感じるのです。
人間は自分の正しさに固執してしまう生き物です。争いはその精神から生じます。逆に言えば、決して100パーセントの正しさを持つことなどできない人間の思い上がりを知らされたとき、こぶしを振り上げる自分の姿が滑稽に見えて争うことができなくなります。そこに「PEACE」=「安穏」があります。
※1 凡夫 煩悩にとらわれて迷いから抜け出すことのできない人間のこと
◆ほんとうの意味での「PEACE」を生きるために
世界では悲惨なテロや残酷な事件が起きています。しかし、私は犯人と呼ばれる人々を一方的に「悪者」として扱う気持ちにはなれません。なぜなら、彼らの身の上にも、間違いなく仏さまの「LOVE」=「慈悲」がかけられていると思うからです。縁さえあれば、必ず仏さまに出会うことができると信じます。また逆に、自分自身、縁によっては、彼らと同じ、もしくはそれ以上の罪に手を染めてしまいかねない存在なんだ、ということも忘れてはいけません。
私自身、怒りや憎しみによって、自分を見失いそうになることがあります。そんなときにこそ「LOVEあんどPEACE」を思い浮かべるようにしています。「あんな奴」にも慈悲はかけられ、「あんな奴」との安穏を仏さまは願っている。そのことを自分に問うてみるのです。すると、正解の見つからない戸惑いの中で、浅はかな自分の姿に気づかされ、むしろ心が落ち着いていきます。
難しい仏教語はわからなくても、「LOVE」や「PEACE」ということばなら、すんなりと心に響いてくるものがあるのではないでしょうか。「LOVEあんどPEACE」を合言葉に、迷いの人生を、細やかに生きていきましょう!