目指すお寺は「人生のコンシェルジュ」 – 妙法寺 住職 久住謙昭さん(神奈川県横浜市戸塚区)
2016.06.30
信仰心のない自分に苦しかった日々
長い間、信仰心なんてありませんでした。お寺生まれのよくあるジレンマです(笑)
妙法寺住職の久住謙昭(くすみけんしょう)さんは、地元の横浜市戸塚区名瀬の中学校を卒業後、日蓮宗の僧侶になるために山梨県の身延山高校に入学した。遊びたい盛りに6年間、日蓮宗の総本山 身延山 久遠寺で僧道生活を送る。朝4時起き、ペンライトで食器を灯して洗い、5時になったら先輩の布団を畳む。朝のお勤め後には、数分で朝食を済ませ、境内掃除、走って隣接する学校に通い、帰ってきたら再び掃除と、毎日がぼろ雑巾の生活。でも、それが良かったと久住さんは言う。
身延の経験は自分の原動力。お経や僧侶の所作ができるようになったのもあの時期を過ごしたからこそだと今は感謝しています。
しかし、唯一の葛藤は僧侶として一番大切な信仰心がなかったこと。道場の先生に「作法は身につきましたが、信仰心は身につきませんでした」と言い切った。大学卒業後にお寺に戻り、檀家さんに法話をしても、内心は信じてない自分が「有り難い」お話しをすることに違和感が募る。自分の中で信仰心を感じ始めたのは、30代になってから。久住さんは31歳の頃、父であり師匠である謙是(けんぜ)さんが亡くなり、住職を継いだ。謙是さんが生きていた頃は、色々とアイデアを進言したが、謙是さんからは“NO”の連続。
当時は住職って好きなことができていいなと思っていましたが、父が亡くなってからお寺を運営する大変さが身に染みました。
父・謙是さんは妙法寺の中興の祖。700年の歴史がある妙法寺だが、住職不在が長く続いた空白の歴史があった。謙是さんはお寺に眠る日蓮聖人座像(横浜市有形文化財)や、徳川家寄進の御厨子にスポットライトを当て、新しい檀家さんとのご縁も増やし、妙法寺の基礎を築いた。
久住さんはいざ住職となったものの、檀家さんとのコミュニケーションが噛み合わないことも多く、父の偉大さを感じる毎日だった。そのような時、ある勉強会で日蓮宗・瀬野泰光先生の教えに触れ、初めて信仰というものが腑に落ちた感覚があった。
無力さを感じていた当時、自分は周囲の人に活かされて生きるしかないのかもと思うようになっていました。日蓮宗で唱えるお題目で大切なことは、慈悲・敬い・感謝です。目に見えるもの見えないものを問わず、周囲に感謝し、敬い、慈悲の心を持って日々努力する大切さに気付き、スッと腹に落ちました。
『釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候』という日蓮聖人の言葉があります。お寺では様々な場面で、法華経とお題目を唱えます。法華経とお題目は、慈悲・敬い・感謝に生きる人の振る舞いを教えます。今は、慈悲・敬い・感謝に生きたいという心からの願いを込めて、毎日お題目を唱えます。
浄心道場は慈悲・ 敬い・感謝の場
仏教とは人生を受け入れる智恵と勇気です。辛さや苦しみを受け入れる心を養えば、嫌な事でも感謝し、敬い、慈悲深く接するようになります。浄心道場の目的は慈悲・敬い・感謝の気持ちを育むことです。
妙法寺では、毎月第一日曜日に『心みがきの価値ある日曜日』をテーマに浄心道場を開催している。ストレスの多い現代を生きる中で、人は三毒(貪欲、怒り、愚痴)という煩悩に心を乱されている。乱れ、疲れた心を清らかにするのが浄心道場である。
TVドラマ『踊る大走査線』で、和久さん(いかりや長介)が青島(織田裕二)に「これからどういう世の中になるかわからねぇけど、自分の信念貫いて、弱い者の支えになってやれ」と言う場面があります。それを聞いた時、まさにお坊さんの生き方だと感じました。
妙法寺では、経済的に困難な状況のひとり親家庭に、お寺に集まるお供え物をおすそ分けする『おてらおやつクラブ』の活動に取り組んでいる。それは慈悲・敬い・感謝の心を表す行動でもある。
檀家さんに『慈悲・敬い・感謝でいきましょう』と言っても、自分がやらなければ誰も信じません。法話よりも行動と態度で示したいです。
法華経に登場する常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)は、千日回峰行のもととなった菩薩です。人間には必ず仏性があると、常不軽菩薩は誰をも敬いました。お坊さんは上座に置かれがちですが、傲慢にならず、場や周囲の皆さんを敬う姿勢が大切と心がけています。
久住さんは様々な場面で「ありがとう」と言う。そのきっかけは「ありがとうと言わないね」という周囲の指摘だった。
偉そうなことを言う自分も、全然できていない(笑) でも、気づいて反省し、心がけることが大切です。
浄心道場でも「お疲れさま・スミマセンを『ありがとうございます』に変えましょう」と伝えている。感謝を大切にする風土が、浄心道場の参加者に根付いていると久住さんは感じている。
仏事は死んだ人のためではなく、生きている人のためのもの
仏事や供養は亡くなった人のためのものと捉えられがちだが、久住さんはそれは違うと言う。
法事は、今を生きる自分のための時間です。法事では故人の命を見つめながら、自分自身がどう生きるかを問い直す機会にしてもらっています。
死にゆく方々は天国や地獄や浄土を思うよりも、旦那は、孫はと、残された人を思いながら亡くなられていくと感じます。残された人がいきいきと生きることは故人の願いに沿う、一番の供養です。だからこそ、法事のひと時を、自らがどう生きるかという問いとともに過ごしていただきたいです。
久住さんは、葬儀や法事への子どもの参列にこだわっている。
葬儀こそ命の教育の場です。今の子どもは人の死をテレビやマンガで知っても、日常では経験しません。人が亡くなる時に、死を実感することが大事です。ですので、子どもの参列にはこだわります。法事も、命日を過ぎてよいから、みんなが集まれる時に行なってくださいと伝えています。
うるさい住職と思われても良い。死を見つめることは生きるを見つめること。葬儀も法事も故人による縁であり、願わくば、参列した一人ひとりが慈悲・敬い・感謝に生きる人生を送ってほしい。久住さんは葬儀や法事の場に、そのような願いを込めている。
久住さんはお墓にもこだわりがある。
パワースポット知りませんか?とよく聞かれるので、ご先祖様のお墓があなたのパワースポットですと答えます。
つらいこと、うれしいこと、生きていれば色々ある。しかしどんな時でも、今の自分があるのはご先祖様のおかげ。久住さんは、お墓は遠い場所にあったほうがよい、行き帰りもお墓参りの一部と伝えている。
故人を思いながらお墓参りに行くことで、目に見えないものと繋がる時間が長くなります。目に見えるものに溢れる現代だからこそ、目に見えないものが大事です。お墓は目に見えないものを感じ、生きる力を養うパワースポットです。そして、目に見えないものを感じる時、お寺は最適な場所です。
妙法寺には700年間同じ場所にあり続けてきた歴史の安心感がある。これからも多くの人が目に見えないものと向き合い、慈悲・敬い・感謝に生きるための活力を養うパワースポットでありたいと久住さんは思っている。
大切にしていることは相手との共感
目指すお寺の姿は人生のコンシェルジュです。
コンシェルジュは「総合世話係」という意味。人々の多様な要望に応えるお寺を目指すという思いが込められている。言い換えると、頼ってもらえるお寺でありたいという願いでもある。そのようなお寺を目指すためにも久住さんは共感を大切にしたいと言う。
浄心道場に来られていたおじいさんが亡くなられた時のことです。市営斎場で葬儀をすると8日も先になる。お寺ならすぐにできるし、安くできるかもしれないので、妙法寺が葬儀の会場になりました。ご遺族の気持ちを推し量りながら、葬儀のプロデュースをご一緒させていただきました。
そして、最近は檀家さんとのメール交換が増えているそう。檀家さんの娘さんとは、仕事や生活のことも話すようになり、ある日「国家試験に受かった!」と合格書の画像を送ってくれた。久住さんは「相手の喜びが、自分の喜びのように感じた」と言う。
最近は檀家さんがお寺に来ると、プライベートの話に花が咲くと言う。
いきいきとした相手の方の姿を見ることがうれしくて、つい前のめりになります。聞いたら長くなると承知で、敢えて聞きます(笑)
真面目で誠実な中に、明るさがある。それはお寺のカラーでもあり、久住さんをはじめとした妙法寺の一人ひとりが、今日も参詣者を温かく迎えている。