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【二階堂和美さん(歌手・僧侶)の“いのち”観】- 死者は生者にはたらきかけ続けている –

2017.03.11

撮影:馬場わかな

僧俗問わず、各ジャンルで活躍されている多彩な方々に、ご自身の死生観(ここでは“いのち”観ということばを使います)をまっすぐにお聞きしていくこの連載。記念すべき第一回目にご登場いただくのは、歌手であり、浄土真宗本願寺派の僧侶である二階堂和美さん。一切の虚飾を取り払った、シンプルで力強い、生(なま)の“いのち”観を聞かせてくださいました。どうぞ、最後までじっくりとお読みくださいませ。

二階堂和美(にかいどう・かずみ)

歌手。代表作は2011年発表の『にじみ』。スタジオジブリ映画『かぐや姫の物語』の主題歌「いのちの記憶」を作詞作曲・歌唱したことで、音楽ファンのみならず広く知られるところとなる。最新作は21人編成のビッグバンド、Gentle Forest Jazz Bandと組んだ『GOTTA-NI』(2016)。浄土真宗本願寺派の僧侶でもある。広島県在住。

www.nikaidokazumi.net

亡くなった人は「前を向いて生きてくれよ」と呼びかけている

――いきなり直球な質問から失礼します。死んだら、人はどうなると思いますか? 死後、どこか、向かうところがあると思いますか?

そうですね……。寿命がつきれば、もちろん、肉体はなくなってしまいますよね。でも、究極的なことを言えば、ただ、それだけなんじゃないかな。肉体が消えたところで、決して消えないものがあると思うので。

――決して消えないもの、ですか。詳しくお聞かせいただけますか。

私が大学生のときに、最愛の祖父が亡くなって。そのときに、肉体は、ある意味「いれもの」でしかなかったんだな、って思ったんですね。大学では美術を専攻していて、それまでは、主に人物の絵を描いていたんです。人の表情や身体に興味があって。でも、祖父の葬儀を終えて、大学に戻って、自分の描いていた絵を見たときに、なんだかむなしくなってしまって……。

――外面的なものに、リアリティーを感じることができなくなってしまっていた?

リアリティー云々というか、興味の問題かな。いれものの姿かたちより、もっと内面の声を問うていきたい、そこから立ち上がってくるものを探りたいと思って、それからしばらくは抽象画ばかりを描いていました。

――「内面の声」というのはどういうものでしょうか?

悩みや、心の内で渦巻いているもの、ひとりひとりにはたらきかけ続けている、いのちの呼び声というか……。私の実家は浄土真宗本願寺派の寺院なのですが、祖父の通夜のときに、僧侶である父がこう話したんです。「亡くなった方は、すでに仏となって、私たちを見守ってくれています」。その状況でその話を聞いた瞬間、なにか、はじめてストンと腑に落ちるものがあって。

――きっと、二階堂さんが、正真正銘の「自分ごと」として、仏の教えを受け取り始めた瞬間だったのですね。

そう。仏教に目覚める最初のきっかけでしたね。祖父が亡くなって、ほんとうに悲しくて、ああ、もっとあんなことをしてあげたかった、こんなことも一緒にしたかったって、後悔ばかりで、ずっと泣いていたんです。でも、もし、父が言ったように、おじいちゃんがすでに仏となって、私のことを見守ってくれているとしたら、「そんなに悲しまんでええ、笑うてくれ」って言っているだろうな、って。

――理屈を超えたところから、リアルに実感されたのですね。

そう。ほんとうにそう感じたんですよね。死んだ人のいのちは、決して迷っているわけではなくて、仏となって、私たちに「前を向いて生きてくれよ」とはたらきかけてくれているんだな、って。そのことを、祖父の死を通して、はじめて、自分の実感として活かすことができた。それがあったからこそ、喪失の苦しみから立ち直ることができたんです。

限りあるいのちを自覚することから、生きるよろこびが

――さきほど、「いのちの呼び声」という表現をされましたけれど、それは、すべての存在の根源にある抽象的なはたらきのことでもあるし、もっと具体的な、個別のものとして私たちにはたらきかける力のことでもあるのでしょうか?

肉体はなくなってしまっても、生きている私たちがふっとこころを向けたときに、その人は、確実に、生きている、そう思える瞬間があるんですよね。それは、亡くなった祖父母だったり、友人だったり、あるいは血縁関係もなにもない、まったく面識のない過去の偉人だったりもするんですけれど。たとえば、歌っているときにも、ふと、「この状況で、美空ひばりさんだったら、こう歌うはず」とか、「いま、笠置シヅ子さんの見ていた景色を私は見ているかもしれない!」とかね(笑)、冗談じゃなく、しょっちゅう呼び出しちゃっているので。この世でいのちを終えたとしても、いま生きている人の中に、その人は、さまざまなかたちで確実に生き続けている。「いのちが生きている」って、こういう風に、すごく具体的なお話として語ることもできるんじゃないかな、って。

――肉体がなくなった後も、いのちはさまざまなかたちで続いていく……。そのお話は、
仏教の真ん中で説かれていることと、そのまま重なりますね。

そういう意味では、やっぱり、仏教というのは、遺された人たちのためにあるものだと思っています。死後も続いていくいのちの存在を実感することから、生きる力が湧いてきたりもするので。

――ほんとうの意味での生きる力というのは、死というものに向き合い、それを受けとめたときに、はじめて湧いてくるものなのかもしれません。

亡くなった方のいのちが、いま、自分を生きていると感じることもそうですし、ごくごく単純に、素朴に、「自分もいつかかならずこの世を去るんだ」と。その事実をきちんと受けとめて、はじめて、いま、かけがえのないいのちを生きている、そのよろこびが実感できるということも言えると思いますね。

――生きているよろこびですか。

お釈迦さまもおっしゃっていますけれど、生きるって、ほんとうに苦しいことだらけ、どうにもならないことだらけなんですよね。そのことが、もう、大前提としてある。それでも、私たちは、生きていかなきゃならないわけで……。でも、「終わり」を意識することで、いまここにある、このいのちのかけがえのなさに目を向けられると、生(せい)の質感が変わってくる。すると、どんなに苦しい状況にぶつかっても、そこにしか立ち上がってこない、一期一会の感情を味わえるようになるんですよね。その中に「よろこび」と呼べるものもあらわれてきて……。そここそが、仏教の要の部分なんじゃないかな。だから、生きている限り、苦しみが完全に消えることはないかもしれないけれど、どんな状況に置かれていたとしても、依りどころとして問うていけるものがあるというのは、やっぱり、一筋の光だなあと思うんです。

――仏教は、真にいのちを生きる知恵、そのものですね。

ほんとうに。私自身、僧侶である前に、ひとりの仏教徒なので。日々、仏の教えに支えられて生きていることを実感していますね。

――二階堂さん、本日は貴重なお話をありがとうございました。

※こちらの連載はTemple Web(http://temple-web.net/)との連動企画です。
「二階堂和美さんとの対話/いのちの記憶はのこり続ける」(http://temple-web.net/column/347/)もあわせておたのしみくださいませ!

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