語源は「逆さ吊り」。お盆の由来から見つめなおす死生観 – 龍雲寺 住職 細川晋輔さん【教えて!お坊さん】お盆に込める想い①
2020.07.09
みなさんは、毎年のお盆をどのように迎えられますか?
お盆といえば、お盆飾りやお坊さんへのおもてなしなど、つい形式に気を取られがちです。久しぶりに親戚が揃って楽しいという人もいれば、亡き人への想いがつのり悲しみと向き合わなければならない人もいるでしょう。お坊さんはこうしたさまざまな想いに寄り添ってお盆のお参りをします。まいてら新聞では4人のお坊さんに、お盆に込める想いを語っていただきました。
まずは龍雲寺の細川晋輔住職(東京都・臨済宗)にお話をうかがいましょう。
細川晋輔(ほそかわしんすけ)
昭和54年生まれ。佛教大学人文学部仏教学科卒業後、京都にある妙心寺専門道場にて9年間禅修行。現在、龍雲寺住職。花園大学大学院文学研究科仏教学専攻修士課程修了。妙心寺派布教師。東京禅センター副センター長。NHK大河ドラマ『おんな城主直虎』禅宗指導。
亡くなった人との対話が、いまを生きる支えに
「お盆」は、仏教用語の「盂蘭盆会」を略したことばですが、その語源はサンスクリット語(インドなどで用いられた古代語)の「ウラバンナ」。「逆さ吊り」という意味なのだと、細川さんは教えてくれました。
「お釈迦さまの十大弟子のひとりに目連尊者という人がいます。亡くなった自身の母親が餓鬼道で逆さ吊りになって苦しんでいることを知り、目連はひどく悲しみます。そこでどのようにしたら母親を救えるか、お釈迦さまに相談したところ『夏の修行の終わる7月15日に僧侶を招き、多くの供物をささげると母親は救われますよ』と言われたのです。これがお盆の始まりです」
細川さんはこの「逆さ吊り」が、わたしたちの普段の生活の中にある「さかしまの苦しみ」を表しているのではないかと言います。
「わたしたちは、必ず死にますし、老いますし、あとから冷静に考えると自分が間違っていたなと気づくこともあるでしょう。コロナウイルスもそう。でも、わたしたちはついつい逆の視点で物事を見てしまいます。「自分は死なない」「ずっとこのまま元気なんだ」「自分は間違ってない」と。そんなはずじゃなかったと思うこともたくさんありますが、目の前の現状をありのままに受け止めることが大切です。さかしまに見てしまうから苦しみが生まれる。もっと素直に、正面から見れば、そうした苦しみはなくなるのではないでしょうか」
お盆という行事は、ご先祖さまや亡くなった人と向き合うことで、自分自身もいつかは亡くなる存在なのだということを再確認できる機会にもなります。
そのお仏壇を前にすると、かつての気持ちがよみがえる
「いつか死ぬ命だからこそ、いまを大切にしなきゃいけないと思えるものです。亡くなった人たちは何も話してくれません。だからこそこちらが考える。さかしまではなくまっすぐに相手のことを考え、想うのです。おじいちゃんは何をしたら喜んだかな。おばあちゃんは何に悲しんでいたかな。そうした思い出を蘇らせるだけで心が温まりますし、わたしたちの生きる支えになってくれます」
中学生の頃からお盆参りをしていたという細川さん。思春期ゆえ頭を丸めてお参りすることを恥ずかしく思ったものの、「こんな若い小僧に対して、たくさんのお宅がジュースやお菓子で歓待して、はげましてくれました」と言います。特に元海軍兵の方からのことばが忘れられないそう。
「本山への修行に出る直前に「禅の修行はきびしいけれど、海軍よりは楽だから」と言われたんです。その方はもう位牌や写真となってお仏壇の中におられますけど、そのお宅にお参りに行くと、いまでもお坊さんになろうとしていたころのピュアな気持ちがよみがえります」
次回は、長谷寺の岡澤慶澄住職(長野県・真言宗)にお話をうかがいます。