死者と生者が出逢う観光〜大阪七墓巡り/陸奥賢さん vol.1
2017.06.09
連載「100%未来のできごと」、ふたりめのゲストは陸奥賢さんです。
陸奥さんの肩書きのひとつは「死生観光家」。毎年お盆の頃に「大阪七墓(ななはか)めぐり」という一風変わったまち歩きのイベントを開いています。「大阪七墓めぐり」は、かつて大阪のまちでは無縁仏が眠る墓地をみなで巡り、みなで供養していた行事を復活させたもの。私も一度参加しましたが、誰もみなが無縁であることをしみじみと感じながら、どこの誰ともわからない無縁の人たちのお墓に手を合わせるのは、なんともいえない親しさがあり、とてもよいものでした。
今回こうして、まいてら読者のみなさんに陸奥さんを紹介できることをとてもうれしく思います。しばし、陸奥さんの案内で時空を超えた「まちあるき」を楽しんでください。では、陸奥さんどうぞ!
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世界観に光をあてて揺さぶる
みなさん、こんにちは。陸奥賢(むつさとし)と申します。1978年大阪生まれの堺育ち。肩書きは観光家/コモンズ・デザイナー/社会実験者です。自称です。警察に捕まったら新聞には「無職」と記載されるかも知れません。
観光家と名乗ってますが、観光という言葉は随分と手垢にまみれた言葉になりました。「20世紀は戦争の時代。21世紀は観光の時代」とか聞いたことはないでしょうか? 日本政府も観光って言葉は大好きで、二言目には「観光立国」(観光立国推進基本法まで制定されました)とか「2020年の東京オリンピックに向けてインバウンド観光を充実させ、訪日外国人4000万人突破を目指す」とか「観光集客数〇〇万人の経済効果は〇〇億円」とかいいますが、どうも観光というと経済の話になりがちで、派手派手しい「産業」のイメージが強いようですが、ぼくはちょっと(だいぶ?)変わった観光を手掛けてます。
例えば「死者と生者が出逢う観光=死生観光」とか「目に見えないものを観る=想像(創造)観光」とか、「異類と出逢う異類観光」とか、ニッチというか、マニアックというか……オルタナティブな観光をやってます。まったく儲からないです。
変な観光ばっかやってるからか、たまに「そもそも陸奥賢は、観光を一体、どういう風に捉えているのか?」といった問いを投げかけられるんですが、ぼくはよく、その返答として「世界観」の話をしてます。世界観という言葉は……恋愛観や宗教観といった言葉もありますが……その人なりの、物事(世界、恋愛、宗教など)への捉え方や見方や考え方といった意味に使われてます。そして固定化された世界観に、意外な角度から光を照射して「あれ?世界ってこんなんやったっけ?」とか「宗教ってそういう一面もあるのか?」とか「そういう恋愛もええかも?」とか、そういった発見を促す行為のことを、ぼくは「観光」(光を観る)というのだと定義しています。
あなたの、自分の、世界観を変える。そのための行為や実践を観光という。要するに、決して観光は、金儲けのためだけの道具やないと思っていて、いまは観光というと、すぐさま「観光産業」(金儲け)の話になってしまいがちなんですが、そもそもの「観光」というのは、もうちょっと、思想的で、哲学的で、宗教的なものであったんやないか?と思ってます。
そうはいっても、いまの時代、国境も民族も軽々と超える超資本主義が世界の隅々まで浸透してますから。なんでもかんでも経済的効果で考える。そうやないと存在理由、価値が認められない。観光もその超資本主義の影響から逃れることはできませんが、ぼくは人間が天邪鬼に出来上がっているようで、そういった経済効果で、数字では計られない観光に興味があるということなのかも知れません。
あと、もうひとつ話を付け加えると、「観」というのは、「雚」+「見」という漢字で成り立ってますが、「雚」というのは「口口にみんなが言い合うこと」という意味やそうです。「見」は「目」に「足」がついていて、これは「どこかに歩いていって見ること」を意味します。つまり「観」という漢字は「どこかに歩いていって、実際に現場を見て、それをみんなで口口に言い合うこと。話し合うこと。対話をすること」という意味なわけです。漢字の成り立ちを考えても、やはり観光というのは、思想的やし、哲学的やし、宗教的な言葉やと思います。具体的、実践的でもあります。
近松門左衛門も七墓に興味があった?『賀古教信七墓廻(かこのきょうしんななはかめぐり)』
さて、それで、ぼくが「死生観光」「想像観光」「創造観光」「異類観光」なんてことをいって、いろんな観光プロジェクトを仕掛けてるんですが、今回の「まいてら」でお話したいのは「大阪七墓巡り復活プロジェクト」についてです。
大阪に、かつて、「大阪七墓巡り」という不思議な風習がありました。時代は江戸時代。成立した年代はようわからんのですが、あの近松門左衛門が『賀古教信七墓廻』という浄瑠璃(『外題年鑑』によると「元禄15年7月15日上演」とあります)を書いてはります。おそらく元禄年間(1688~1704)には「大阪七墓巡り」の風習は成立していて、当時の大阪の町衆のあいだでも一般的に認知されていたものと思われます。そうやないと近松さんも浄瑠璃の題材にしてへんと思うんですな。近松さんという人は、随分と業の深い人で、売れるためなら世情を賑わした男女の色恋沙汰、心中事件だろうと作品の題材にした人ですから。
上演された時期がまたええですな。旧暦7月15日に初演されてますが、これは盂蘭盆会の真っ最中。初演のさいには地獄や賽の河原の情景などを人形で見せるといった趣向もあったとか。見世物小屋のような、お化け屋敷のような、ちょっといかがわしい雰囲気の中で上演をやったんかも知れません。ただ、あんまウケへんかったようで、再演の記録などはないそうです。『正本近松全集』の解説では「惨酷無惨で奇怪極まる幼稚な作品」と酷評されています。近松さん、無念。
この浄瑠璃作品の主人公は、タイトルからもわかりますが、賀古(現在の加古川市)の教信沙弥(きょうしんしゃみ、786?~866?)です。『今昔物語』(巻十三 播磨國賀古澤教信往生語)や慶慈保胤(よししげのやすたね、931?~1002)の『日本往生極楽記』などにも記されてますが、若い頃は奈良・興福寺の学僧やったそうですが、発心して世俗に身を投じて(在家に戻ったわけですな)播磨国賀古に渡り、周囲から「阿弥陀丸」と呼ばれるほど念仏を唱え続け、最後は貧窮の中に死んだ・・・という伝説的人物です。妻子もいたそうですが、遺言で「自分の死体は犬や鳥に食わせなさい」といったそうで、ほんまに死体は犬や鳥に食われたそうですが、不思議なことに顔だけは残ったそうです。なので加古にある教信寺の開山堂では、頭だけの秘仏「教信沙彌頭像」が祀られてます。いっぺん現物を見てみたいですな。
「まいてら」の読者のみなさんは仏教関係者が多いと思うので、なんだかぼく如きが教信さんの話をするのも僭越ですが、教信さんは念仏三昧の中で往生した本邦初の念仏者として、いろんな方に信奉されたそうで。とくに親鸞さんは「われはこれ賀古の教信沙弥の定なり」というのが口癖やったとか。「定なり」というのは「目標にした」といった意味らしいですな。あと、踊り念仏の一遍さんも教信さんの大ファン(?)で、教信さんと同じ場所で死にたいと願ったほどで、病の身で旅を続け、しかし、その途上の兵庫津(現在の真光寺)で亡くなったそうです。亡くなるさいに一遍さんは遺言で「教信さんと同じように、自分の死体も犬や鳥に食わせてほしい」といったそうですが、お弟子さんたちは火葬にしたようです。遺言通り、食わせてあげたらよかったのに……とぼくなんかは思うんですが、まぁ、さすがに凄惨すぎると思ったんですかね。
ただ、件の近松さんの『賀古教信七墓廻』は、あんまり歴史上の教信さんとは関係がないようで、浄瑠璃の教信は、親の仇と兄嫁が死亡したことに、世の無常を感じて法師となる…というストーリーで、ただ古人の名前を借りただけの近松さんのオリジナル作品となっています。
さて、大阪七墓巡りは、文字通り七つの墓を巡るので、七墓巡りなわけですが、しかし、意外と、この七墓の所在地については、いろいろと不明確な部分が多いんですな。近松さんの『賀古教信七墓廻』の第四段「夏野のまよひ子」を読んでみても
(1)あだし煙の梅田の火屋
(2)短か夜を誰が慣わしの長柄川
(3)道のなき野原笹原葭原の
(4)泣き泣き歩む夏草の蒲生」
(5)それとも知らで別れ行末は小橋の
(6)寺の鐘の聲高津墓所に夕立の
(7)煙知るべに千日の
(8)これぞ三途と一足に飛田の
と近松さんお得意の掛詞で、調子よく七墓が登場してるんですが、七墓巡りやというてるのに、よう読んだら「梅田」「長柄」「葭原」「蒲生」「小橋」「高津」「千日」「飛田」と「8カ所の墓地」が紹介されてるんですな。おいおい。一墓多いがな。適当やな、近松さん……。
「ほんまの七墓は、一体、どこなのか?」……謎なので、ぼくはいろいろと資料を調べたことがあるんですが、例えば、大正15年(1926)発行の『今宮町誌』(編纂:大阪府西成郡今宮町残務所)の「木津の墓」の項目を参照すると、「木津の墓は古来大阪の七墓、即ち千日前、梅田、福島、天王寺、鵄田、東成郡榎並と同じく七墓の一に加へられた場所」とあって、ここでは「(9)木津」「(10)福島」「(11)天王寺」「(12)榎並」なども七墓だったと記されてます。近松の七墓とまるで違うし、候補が増えとるがな・・・。
さらに昭和10年(1935)発行の『郷土研究 上方』(編者:南木芳太郎)の「上方探墓號」(これはかなり七墓についての記述が詳しい資料です。七墓マニアは必携です)を調べてみると「北よりすれば梅田、南浜、葭原、蒲生、小橋、高津、千日、飛田辺りが古い時代のもので、明治になると長柄、岩崎、安部野辺りが加わっている、その他安治川、大仁、野江等の三昧も七墓巡りの中に入れねば成るまい。もっと小さな墓所も場末にはあったであろう」とあって「(13)南浜」「(14)岩崎」「(15)安部野」「(16)安治川」「(17)大仁」「(18)野江」なども七墓として列挙されてます。
この三書に記述されている墓所を加算するだけでも、すでに「十八墓」を超えるんですが、おそらく、もっともっと、いろんな資料や文献を渉漁すれば、その数はなんぼでも増えていくことでしょう。ミステリアス七墓。調べれば調べるほど、謎が謎を呼ぶばかり……。
結局のところ、要するに、盂蘭盆会の頃に、大阪市中にあった墓を、7カ所以上巡れば「大阪七墓巡り」として成就したのでは?と、ぼくは推測してます。実際に先ほどの『郷土研究 上方』にも「今は途絶えたが、貞享、元禄の昔より明治初期に至るまで久しい間、大阪では盂蘭盆になると心ある人々は七墓巡りと称して、諸霊供養のため七カ所の墓地を巡訪して回向したものである。その場所は時代によって多少の変遷があり、又振出の都合にて手近の墓所のみを巡った形跡もある」と書かれてまして。時代や、巡る人によって、バラバラやったちゅうことですな。
七墓巡りは無縁仏の供養の祭礼・風習だった
ここで、しかし、ぼくが、特筆すべきというか、ユニークで、面白いのは、江戸時代の大阪七墓巡りは、「墓があったらどこでもええ。だれの墓でもええ」という、随分と大雑把な墓参りの設定であることです。「どこの誰か知らへん。どこの馬の骨かもわからへん。死者とは一切、会ったこともないし、無関係や。けど、墓があったら参ったらええ」という墓参り。死者と生者との関係性がアバウトで、テキトーで、ラフで、「無縁?OK!」という墓参り。
じつは近松門左衛門の『賀古教信七墓廻』も、そういう設定なんですわ。主人公の教信さんは、親の仇や兄嫁を亡くして、その菩提を弔うために、まったく縁もゆかりもない大阪市中の七墓を巡るんですな。作中の教信さん、教信さんの親、教信さんの兄嫁にとって、七墓の死者は無縁です。しかし、無縁仏を供養することが、自分の、有縁の死者への供養に繋がるという。現在の墓参りというと「血縁者・有縁者・家族・親戚のお墓を参る」というものが一般的なスタイルですが、その様相とは随分と変わってます。
ぼくは2008年の夏頃から大阪市の観光のプロデューサーになり、「大阪あそ歩」というコミュニティ・ツーリズム(このコミュニティ・ツーリズムについては次回のコラムで詳しく触れます)のプロデューサーをやっていたのですが、ふとしたことをキッカケにして、この「大阪七墓巡り」という江戸時代の大阪の不思議な祭礼・風習を知り、なぜか惹かれるものを感じました。おそらく2009年頃に知ったと思います。ただ、知りはしましたが、実際に「巡ろう」「ツアーをやってみよう」という考えまではなかったんですな。それが「実際にやってみよう……」となったのは、2011年の東日本大震災が起こってからのことでした。
(続く)
始めまして、読ませてもらいましたが、なぜ大阪にこういうお墓巡りがあったのか?今現在でも地方から出てきた人達が多い大阪で、簡単に遠い地方に帰れない人々が毎日を平穏に過ごせる為にあってもおかしくないような催しに感じました