法話は気づきを深めるキャッチボール(弘法寺副住職・渡邊弘範)
2024.06.10
『H1法話グランプリ』や、フジテレビの番組『90秒で心に沁みる!説法GP』など、なにかとお坊さんの法話が注目を集めています。お寺の日常でも、お坊さんとお檀家さんのつながりの中でも、さまざまな法話が交わされています。
弘法寺の渡邊弘範副住職(大阪府・真言宗)は、法話をし続けることを自らに課しているそうです。日々の法話でどんなことに悩み、どんな工夫をしているのでしょうか。
渡邊弘範(わたなべこうはん)
大阪大学大学院を修了後、世界40数ヶ国を放浪。帰国後は、高野山大学大学院でチベットの研究をする。石尾山弘法寺では「地域社会を豊かにするお寺活動」を合言葉に、お寺を「祈り・集い・学び」の場として開放。
法話によって生まれる納得
30歳でお寺に戻り、僧侶として生きていくと決めた時、自身に誓ったことがあります。それは「葬儀や法事のあと、お檀家さんに必ず法話をするぞ」ということです。
法話とは、僧侶が説く仏法のお話のことです。近年も法話会や法話イベントが人気ですが、お檀家さんの葬儀や法事のあとのお話も、立派な法話なのです。
たとえば、葬儀や法事で読まれるお坊さんのお経。いったい何を語っているのか分からないですよね。真言宗の場合、お経の最後に「回向文」ということばを読み上げます。
願わくは この功徳をもって あまねく一切に及ぼし
われらと衆生と みなともに仏道を成ぜん
「読み上げたお経やみなさんの祈りの功徳が、みなさん自身や故人さまだけではなく、すべての人に広がっていきますように、そんなことばで法事は締めくくられるんです」
このようにかみ砕いてお話しすることで、みなさん「へえ」「なるほど」と納得して下さいます。読経に対する理解が深まることは、私としてもとても嬉しく感じます。
法話を考えるのもひと苦労
みなさんは、お坊さんの法話をどう受け止めていますか?
「いいこと言ってはるなあ」「なんかよう分からんわ」「話、長いなあ」などと、人それぞれだと思います。
お坊さん側としては、毎回「何を話そうかなあ」と、額に汗をかいているんです。
お身内にご不幸が起きますと、枕経、通夜、葬儀、初七日、七日参り、四十九日、一周忌と、仏事が続きますよね。同じテーマをくり返し話すことはできませんから、そのつど、違う話を考えます。
ところがたまに、ご親戚でご不幸が重なりお葬式が続くことがあります。そうすると、Aさんのお宅とBさんのお宅で、参列者が重なることも少なくありません。
こうなると大変です。できるだけ違う話をしようと思うと、さらにさまざまなパターンで法話を考えないといけなくなるのです。
医師と僧侶の問答
四十九日法要の席でよくお話しする法話があります。ここでちょっとご紹介しますね。
とあるお参りの方に「人は亡くなったらどうなるのでしょうか?」とたずねられたことがあります。
私は僧侶として「亡くなってから四十九日の間に修行をして、西の彼方にある阿弥陀如来さまがおられる極楽浄土に往生され、仏さまとなって見守ってくれるんですよ」とお伝えしました。すると「その話は本当ですか?」と返してこられたわけです。
「本当ですか?」と問われると返答に困るわけですが、わたしはその時「そうですよねえ、疑問に思いますよね」と口にしてから、「どうしてそのような質問をされたのですか?」と聞き返してみました。
聞いてみるとその方は、緩和ケア病棟にお勤めのお医者さま。患者さんから「死んだらどうなるのですか?」と問われた時に、答えに窮したのだそうです。
私はさらに「患者さんに『先生、この病気、治りますか?』と聞かれたら、お医者さまとしてどうお答えされるのですか?」と質問を続けました。すると次のように教えてくれました。
「治る、治らないは分からない。でも、ちょっとでも良くなってほしいなという『想い』で治療に取り組んでいるんです」と。
私は思わず「なるほど!」と膝を叩きました。なぜなら仏教も同じだからです。極楽浄土があるかないかよりも、そういう場所があったらいいなという『想い』が、私たちの心を支えてくれるのです。
四十九日法要を経て、故人は仏さまとなりますが、本当に仏さまになったか、正直誰にも分かりませんよね。でも「極楽浄土で安らいでくれていたらいいな」「仏さまになって見守ってくれていたらいいな」という切なる想いが、みなさんを癒し、安心させてくれるのではないでしょうか。
「そうですよね」が生むキャッチボール
ところで、さきほどの法話の中にもありましたが、私の口癖は「そうですよね」です。
まずは相手のことばを否定せずに肯定する。「そうですよね。実際に、極楽浄土って、わたしも見たことないですもん」と。
「そうですよね」はもはや口癖になっちゃっています。でも、そこから始まる会話のキャッチボールが、お互いの話をより深めてくれます。
お坊さんの法話が完ぺきでなくても、キャッチボールの入り口になってくれたら、それで充分なのかもしれません。なぜなら、答えを与えるのではなく、考えや気づきのきっかけとなるのが、法話の役割だと考えるからです。
とはいえ、もちろん完ぺきに越したことはありませんから、これからもより法話に耳を傾けてもらえるよう、精進して参ります!