文殊菩薩の一撃(長谷寺住職・岡澤慶澄)【けいちょうの徒然お遍路記(12)】
2022.03.04
岡澤慶澄(おかざわけいちょう)
昭和42年長野県生まれ。平成4年、真言宗智山派総本山智積院智山専修学院卒業。平成19年より長谷寺住職。本尊十一面観音の本願である慈悲心を、「いのり・まなび・であい」というキーワードに活動している。
前回(逆打ちお遍路さんの衝撃の一言「いつも初めてです」)はこちら。
文殊菩薩の一撃「いつも初めてです」
ゴムまりを彷彿とさせるエネルギッシュな逆打ちのお遍路さんは、「もう何週も回っているんですか?」という私の質問に対して、「10周」とか「30周」というような、私がワクワクしながら期待した回答ではありませんでした。彼は「いつも初めてです」と言ったのです。
その予期せぬ言葉は、私にとってかなりインパクトがありました。「覚醒の一打」と言うのでしょうか。禅の道では、警策 というよく知られる棒があり、体験したことがある人も多いと思いますが、座禅中に背中をパチンとやられるあれのように、そのゴムまりのような逆打ち遍路さんの言葉は、何かハッとするものがありました。私の中で、遍路道への心構えが、その時に変わったように覚えています。
禅の世界で警策という棒は、「文殊菩薩 の手」と言われているそうです。文殊菩薩は、禅堂に獅子に乗った姿でまつられていますが、仏教における智慧の菩薩としてとりわけ重視されます。あの背中をしたたかにひっぱたくパチンは、私たちの心の目覚めを促す、みほとけの方便の一撃にほかならないわけです。
「大きい、速い、たくさん、豪華」という尺度
朝方にかれこれ400周歩いたというただ者でない老遍路に出会ったこともあり、全長1,200キロメートルにも及ぶ遍路道を歩くことは、それ自体疑いもなく大変なことですから、それを何周もめぐっている人は敬うべきです。なにしろ人のできないことをして、尊い祈りの道を歩いているわけですし、世俗的な価値から遠く離れた聖なる人という感じがするわけです。
一方で、「何周も」という回数や量にばかり目が行くと、遍路道の願いとはズレていきます。文字通り「道を踏み外す」ことになってしまいますので、注意が必要です。
今では私も、一周であれ、百周であれ、また歩きであれ、バスであれ、電車であれ、遍路旅をするその人の心が大切なのだと思えます。しかし、ビギナー遍路として、遍路道にある種の憧れを抱いてやってきた当時の私にしてみれば、たくさん歩いているというだけでエライ!という単純な思い込みは、とても強かったと思います。
思えば平成もまだ前半で、世の中では「大きいもの、速いもの、たくさんなもの、豪華なもの」という尺度に価値があるという風潮がありましたし、お寺の世界にも遍路の世界にも普通に広まっていたと思います。それは物質的な価値と言ってよいでしょう。
しかし、そういう価値がすべて悪いわけではないけれど、それだけで生きていくと苦しくなるし無理が生じてきます。そんな時代の反動もあり、バブル崩壊以降の精神的な価値への関心も高まってきたのだと考えます。きっとそのような時代の流れの中で遍路道が見直されつつあったのでしょうし、あのオウム真理教のような精神世界への極端な傾斜もあったのだと思います。
当時の私が遍路道に憧れたのも、精神的な世界への回帰という流れを感じていたのかもしれませんが、「大きい!速い!たくさん!豪華!」をよしとする時代の普通の子でしたから、「たくさん歩いている人は凄い」という評価を持っていたことは疑いありません。きっとそういう私の単純さというか、良く言えば無垢な、悪く言えば浅薄なものの見方が、先ほどの質問(もう何周も回っているんですか?)にあらわれていたのでしょう。
そしてそのゴムまり遍路さんは文殊の一撃を私に降したわけです。
「いつも初めてです」と。
私は、その一言で、何だかいろんなことが分かったというか、これからの歩みのあり方のようなものが、急に開けたように感じました。遍路というものが、どういう態度で挑むべき道なのか、その一言によって私なりに理解が深まり、方向づけられたのです。
お遍路はオリンピックじゃない
仏教は、人間として授かったいのちの有り難さとか、人生の苦とか、そこには原因がありまたそれを越えていくことが出来るという真実に、自分自身で「はっ」と気づいていく教えであると言います。したがって仏道とは、「はっ」とする体験を重ねていく道であると言ってもいいのかもしれません。
ゴムまり遍路さんからの一撃は、ぼんやりしていた私を「はっ」とさせるとても尊い言葉でした。
私が絶句していた時、9番札所の門前には夕闇が迫っていたと記憶しています。私たちはまだその日、10番札所まで行く予定でした。初日に10ケ寺も巡ろうというのですから、それこそ欲張って若気の至りというものでしょう。
そんな血気にはやるビギナー遍路をなだめるかのように、ゴムまり遍路さんは少し微笑みながら自分の話をしてくれました。若い頃からずっと登山をしていて、秋の終わりから春先まで、冬の山小屋の管理人をしているとか、空いている夏のシーズンにしばしばこうして遍路道を歩くとか。話を聞きながら、このムキムキの肉体は山で鍛えたのか、などと感じ入ったりしていました。そういえば弘法大師も山岳修行をなさっています。
それから彼は重ねて「荷物を減らすこと」「歩き遍路は決して競争ではないこと」を話し、念を押すように「お遍路はオリンピックじゃないからね」と言いました。「より速く、より高く、より強く」というオリンピックのモットーは、近代スポーツの理想かもしれないが、お遍路はそういうものではないよと、念を押したのです。
そして彼は最後に私たちの道中の無事を祈ってくれると、私の方を見て「これをあげるよ」と言って小さな遍路道のガイドブックを手渡してくれました。それは遍路や巡礼の世界では有名な、千葉県の銚子にある満願寺の平幡良雄師の本でした。私はお礼を言い、お互いに別れの挨拶を交わすと、彼は杖をとり、跳ねるようにして夕闇せまる遍路道を逆打ちに消えていきました。風のように。
私は手渡された使い古しのガイドブックを手に、耳に残るいくつかの彼の言葉を反芻しました。なかでも「いつも初めてです」というフレーズは、力強く胸に響いていました。
我、ひとりの乞食にして、何の肩書も後ろ盾もなし
私たちはそれから法輪寺の本堂と大師堂にお参りをしました。この寺のご本尊は、涅槃 の姿の釈迦如来です。お釈迦さまは80歳で入滅されましたが、その最後の説法が有名な「自灯明 、法灯明 」であり、また「すべては移ろいゆく、怠らず、勤め励みなさい」というものであったと言われます。勤行法楽をしながらも、先ほどのゴムまり遍路の言葉を感じつつ、お釈迦さまのその最後のお説法を思い起こしていました。法を灯明とせよ、自らを灯明とせよ。勤精進、勤精進、、、と。
ようやく法輪寺を打ち終え、初日の最後の予定である10番の切幡寺へと向かう前に、ふと思い出して私はゴムまり遍路さんにいただいたガイドブックを開きました。するとその見開きに、彼の手書きでしょうか。力強く太い大きな字で、このように書き込まれていたのでした。
我、ひとりの乞食にして、何の肩書も後ろ盾もなし。
ゴムまり遍路の言葉は、暮れていく遍路道を切幡寺へと向かう間中、私をつかんでいました。なぜなら、僧侶としてとか、寺の息子としてという肩書や後ろ盾を、自分ではさほど気にしていないつもりでいましたし、自分はそういうものから自由でありたいとも思っていたからです。ところが、実際のところどうなの?と問いかけられたように感じたのでした。
文殊菩薩は、私たちの迷いを断つ智慧の利剣を手にしています。ついさっき、その一撃を食らって十分に目の覚めるような思いでいたつもりでしたが、ここで返す刀というのでしょうか、思いがけず鋭い一撃が、もうひとつ打ち込まれてきたのでした。
(続く)