お遍路は歩く瞑想。歩行が身体を鍛え、瞑想の質を高める(長谷寺住職・岡澤慶澄)【けいちょうの徒然お遍路記(9)】
2021.10.05
岡澤慶澄(おかざわけいちょう)
昭和42年長野県生まれ。平成4年、真言宗智山派総本山智積院智山専修学院卒業。平成19年より長谷寺住職。本尊十一面観音の本願である慈悲心を、「いのり・まなび・であい」というキーワードに活動している。
前回(「お遍路を400周!?」ただ者ではない老遍路との出会い2)はこちら。
歩くことが生活になる遍路の日々
お遍路初日。朝日を浴びながら一番札所から始まった歩き遍路の旅。まだ半日も歩いていないのに、あのにわか雨の陽炎の向こうへと消えていった老遍路との出会いのせいか、なんだかとても遠くへ、そして長く歩いているように思われました。この連載もこのペースでは、何年かかるか知れません(笑)
私の遍路の旅は、ひとつひとつの寺の思い出はもちろんあるのですが、それにも増して、それらの寺と寺とをつなぐ道の上での出来事や、宿での出会いの記憶が印象に残っています。きっと歩き遍路をした多くの人がそうなのだと思います。
そもそも現代生活では来る日も来る日も朝から晩まで歩いてばかりという体験をすることはありません。しかしお遍路は歩くことが生活といえるくらい、ひたすら歩きます。この徒歩による体験が非常に強い印象となって、遍路旅の思い出の大半を占め、各お寺の印象は薄くなってしまうのです。もしかすると、歩くという、人類にとって根源的な行為によって身体性が変容し、それが精神活動にも影響して、日頃の現代生活では眠っている意識や感覚が働き出すのかもしれません。
お遍路は歩く瞑想。歩行が身体を鍛え、瞑想の質を高める
歩くことを仏教に引き寄せて考えてみれば、「歩行禅」という言葉があります。いわゆる座る瞑想である「坐禅」に対して、そぞろに歩きながら心を調えていく瞑想、それが歩行禅です。禅宗の伝統には、経行といって、坐禅をするにあたってゆっくりとお堂の中などを歩き、静かにお経を唱えたりします。
徹底して座ることを重視する禅宗において、この経行が重んじられることに、私たちはもっと注目してよいと思います。きっと四足歩行から二足歩行へと立ち上がった私たち人類にとって、歩くという身体行為は人間の意識を形成するうえで決定的な働きをしたはずです。特に遍路のような長時間の歩行は、一歩、一歩、その足音のリズムや呼吸が繰り返され、血流も活性化し、体内では有酸素運動が静かに続き、やがて脳内でも通常とは違う動きがあるのではないでしょうか。
思えばお釈迦さまにしろ弘法大師にしろ、最澄伝教大師にしろ、各宗派の祖師のみならず昔のお坊さんたち(というかすべての先祖のみんな)は、日頃から歩きに歩いていました。お釈迦さまも、とてもよく歩いています。昔の人たちの、日々の歩行に伴う筋骨は、現代のわれわれとは比較にならないほど鍛えられていました。その鍛えられた身体が、坐禅瞑想や念仏の前提になっていたわけです。
この瞑想を通じて、私たちは自分の無意識を見つめることになるわけですが、専門家(僧侶・心理療法家)によれば、実はそれは容易なことではないそうです。仏教的に言えば、あえて見つめたくないおのれのカルマ、その積もり積もった業の塊としても無意識と向き合うには、やはり強い身体を前提とする精神力も必要なのでしょう。
ですから、日常的な歩行によって鍛えられる身体というのは、目立たないけれど、仏道においては大変重要な要素であると思います。私たち現代の僧侶の修行が深まらない理由には、かつては当たり前だった圧倒的な歩行量という修行の前提の欠如の問題があると思います。もっとも、歩行量が減っているのは、坊さんばかりではなく、現代人みんなに言えることですから、その点では様々な心の問題を考える上でも歩行のことはもっと考えてよいと思います。
お寺・仏像よりも、美しい自然ばかりがお遍路の記憶に残る
ところで、私は元来、職業柄もありますが、お寺の歴史や建築、あるいは仏像などに関心を持っている方です。ところが、この遍路旅のあいだは、不思議とそちらには関心が向かず、どうもあまり覚えていないのです。覚えていない、ということ自体が、きっといつもと違う意識状態であったことを暗に伝えていると思います。これも歩行というものの影響なのでしょうか、歩いている間中、内向的、内省的に、過去を振り返ってばかりいたように思います。
では何も記憶していないかというとそうではなく、道々の景色、例えば路傍のススキに照る太陽の光とか、山奥の道を駆けるように進んだ時の風の感触とか、海の広さや潮騒の響き、幾重にも幾重にも重なって奥にそびえる石鎚山の偉容とか、歩きながら見た景色は鮮明に記憶しているのです。内向的な心の働きが外の景色を強くとらえたのか、四国路の美しい自然が心の内に働いて忘れていたような事柄を思い出させたりしたものか。
この歩き遍路の初日も、遍路道での光景は蘇ってきますが、寺々の記憶はとてもぼんやりしているのです。ですから、この連載で、お寺の紹介などを期待される方があれば、期待外れの道中記になってしまうでしょう。
しかしそうは言っても、お寺巡りの旅なのですから、ひとつ6番札所安楽寺さまにまつわる思い出をお伝えしましょう。霊験譚で有名な安楽寺さまでは、私にとってもお大師さまのおはからいともいうべき不思議な出来事に出会ったのです。
※次の記事(安楽寺の霊験譚。信仰が信仰を呼ぶ)に続く