【堀澤祖門さん(僧侶)の“いのち”観】 – 悠々と生きて、悠々と死んでいく –
2017.08.28
僧俗問わず、各ジャンルで活躍されている多彩な方々に、ご自身の“いのち”観をまっすぐにお聞きしていくこの連載。今回ご登場いただいたのは、天台宗三千院門跡門主の堀澤祖門さん。「人は死んだらどうなると思いますか?」という質問に、「そんな難しいことは考えなくていいの」と笑ってお答えになった堀澤さん。そのこころは……? どうぞじっくりとおたのしみくださいませ!
堀澤祖門(ほりさわ・そもん)
1929年生まれ。新潟県小千谷市出身。 三千院門跡第六十二世門主。 京都大学経済学部在学中に比叡山に上がり、千日回峰行を満行した故叡南祖賢大阿闍梨の下で得度受戒。 「十二年籠山行」を戦後初めて達成。 インドの日本山妙法寺や臨済宗の大徳寺で学ぶなど宗派を超えて交流し、在家者の指導にも尽力。 2000年から天台宗僧侶を養成する叡山学院長、02年、天台座主への登竜門「戸津説法」の説法師を務める。2013年、12月、三千院門主に就任。 著書に、『君は仏 私も仏』(恒文社)、『求道遍歴』(法藏館)、『生きるのが楽になる 「覚り」の道の歩き方』(阿部敏郎との共著・KADOKAWA)などがある。
「無我」をさとれば死後を考える必要はなくなる
――人は死んだらどうなると思いますか? 死後、どこか向かう先はあるのでしょうか?
随分と難しいことを知りたがるね。そんなことは考えなくったっていいんですよ(笑)。動物は死んだあとのことを考える? 考えないでしょう。悠々と生きて、悠々と死んでいくだけです。人間もそれでいいんです。
――悠々と生きて、悠々と死んでいく……。人間であっても、そのようなことは可能でしょうか?
可能ですよ。お釈迦さまはそうやって生きて、そうやって死んでいった人です。彼は2500年前にインドの菩提樹の下でさとりを開いたと言われています。いったいなにをさとったんだと思う? お釈迦さまじゃなくてもいい。これまでに数えきれないほどの仏弟子たちがさとりをひらいたと言われています。彼らはなにをさとったのでしょう?
――「真理」をさとったと、一般的には考えられていますが……。
その「真理」の中身が問題なんですよ。『尼僧の告白(テーリーガーター)』という原始仏教の経典があるでしょう。その中で、さとりをひらいたとされるある尼僧さんが、こんなようなことを言っているんです。「私のこの身体は、最後の身体だ」と。つまり、「私は、もう、生まれ変わることはないだろう」ということです。なぜそのようなことが言えるのか? 生まれ変わりの主体、つまり「私」なんてものは、本来、どこにも存在しなかったと気づいたからでしょう。
――仏教で言う「無我」ですね。
そう。「無我」という言葉の意味がわかってしまえば、もう、死んだ先にどうなるか、なんてことは考えなくなりますよ。考える必要がなくなるわけですから。
私はあなたで、あなたは私
「私」という意識は、言ってみれば、狭苦しい枠のようなものなんです。それがある限り、すべて、「私」と「私以外」という、二元相対の価値観の中でものを見ることになってしまうんです。その枠を破ってしまえばいいの。一度、二元相対の枠を破って、一元絶対の世界に入ってしまえば、宇宙のどこにも隔たりはなくなりますよ。私はあなたであり、あなたが私である、ということが、理屈を超えたところからわかるんです。
――私はあなたで、あなたは私。
道元禅師も「あきらかに知りぬ、心とは山河大地(せんがだいち)なり、日月星辰(にちがつしょうしん)なり」という言葉を遺しています。私は山であり、川であり、大地であり、太陽であり、月であり、星々である、と。それと同時に、山は私であり、川は私であり、大地は私であり、太陽は私であり、月は私であり、星々は私である、と。これは実感のこもった言葉だと思うね。
――スケールが大きいですね……!
これが一元絶対のリアリティーなんですよ。道元禅師はこんな言葉も遺しているね。「この生死は、すなわち仏の御いのちなり」。生きることも、死ぬことも、宇宙のすべてのはたらきとともにある、ということでしょう。我々は、「色(しき)」であって、同時に「空(くう)」をも生きているんだ。このふたつは同じものなんですよ。
――堀澤さんご自身は、自分の寿命が尽きることを恐ろしく感じることはないですか?
最初に言ったけど、そもそもその先を考えていないからね(笑)。もちろん、若い頃はいろいろ考えていましたけれどね。私自身は、死んだあと、また生まれ変わるかもわからない。生まれ変わらないかもわからない。どちらであっても一緒ですよ。いまと同じように、淡々と、いま、いま、いまと、ベストを尽くして生きていくだけでしょうね。だから恐ろしいことはないですよ。
――堀澤さん、本日は貴重なお話をありがとうございました。