霊魂について ー 見えないものを感じること(足立信行・T-sousai代表)【死に方のココロ構え(22)】
2023.10.12
足立信行(あだちしんぎょう)
株式会社 T-sousai 代表取締役社長。1982年、京都府生まれ。在家の家に生まれる。18 歳の時に高野山で僧侶になることを決意。高野山金剛峰寺布教研修生修了。高野山で修行をする中で僧侶や寺院の役割を考え、一度下山。葬儀の重要性に気づき、2008年 大手互助会系の葬儀会社に入社。葬儀の担当者となり、年間約 120 件の葬儀を手掛ける。2012 年IT 企業に入社し、エンジニアとして活動。2017年、僧侶と葬儀会社の担当という経験から、お互いが遺族や故人のために協力し祈りの場所として本堂などで葬儀をあげ、安価で心あるお寺葬の構想を企画。葬儀の告知、WEB、導入などから実施、施行までをワンストップできる株式会社 T-sousai を創業し、現職。
※前回(そんなにお葬式は悪いものですか? -「お葬式の体験会」のススメー)はこちら
友人のお兄さんの死
若い頃は、霊魂や魂についてはよく分かりませんでした。私は実家がお寺ではないので、葬儀や法事をする両親の後姿を見ながら、なぜこんなことをやるのだろう、と疑問に思っておりました。
高野山で出家して大学に通いながら修行しましたが、その当時も霊魂について詳しく教えてくれる先生や先輩はいませんでした。誰も教えてくれる人がいませんでしたので、様々な宗教書や哲学書、科学書などを読み自分で勉強をしました。
いろいろなものを読むと、どうも霊魂というものはあるらしいと知りました。しかし、それは知識として理解しただけで、心底から霊魂があるとはいいがたい。そんな曖昧な想いを抱いておりました。
葬儀社に入って多くの方の葬儀を行い、また自らも先輩の自死という経験をし、3.11の納棺ボランティアや様々な霊山霊地での経験を経て、今は改めて想います。「霊魂はある」と。ただこういう領域は個人の信心によりますので基本的には強制はしませんし、強要もしません。
先月、友人のお兄様が亡くなられました。40代半ばという、若さ。菩提寺はないとのことで、私がご縁で導師をお勤めしました。喪主はお父様でいわゆる「逆縁」。ご家族は泣かれ、別れを惜しみました。収骨まで立ち会い、火葬中に喪主であるお父様とお母様と話す時間がありました。
最初はかなり辛そうで言葉すくなく話されていましたが、親戚と話し、お酒も入ったことで、徐々に会話をされるようになりました。その時に、喪主が酔いながら「いやーさびしいけど、またお盆に会えるからよー」と前向きな言葉をおっしゃいました。すると遺族や親戚も「そうだよ、そうだよ」と納得されていました。
法事、春秋の彼岸、祥月命日、そしてお盆。日本は亡き御霊と会えるシステムがいたるところにあるのだなと改めて実感すると同時に、だれもが霊魂という存在に対して、無批判に受け入れているところに、何があるのかとふと疑問に思いました。
日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか
随分前に『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』(内山節著・講談社現代新書)という著作が話題になりました。歴史哲学をテーマにした新書ですが、著書の内山節さんは群馬の上野村と東京を往復し、いろいろな人と交流する中で、ある年代を境に「キツネにだまされる人がいなくなった」という事実にたどり着きます。
「キツネにだまされる」とはみなさんもご承知の通り、昔話などで聞くものです。キツネやタヌキも出てきますが、村に帰る途中に日が暮れてふっと見ると一軒の家があり、美しい女性がいて、食事をもてなされて寝ると、草原で起きた。「ああ!昨日の女はキツネだったか!キツネにだまされた!」と悔しがる。
本書では1965年頃を境に、こういった「キツネにだまされた」という人がほぼいなくなったと言います。さまざまな考証がなされ、高度経済成長や自然への開発、はたまた、科学技術の進歩など。あるいはキツネ側の方が変わったのではないか、とも。
様々な角度から問いかけはなされますが、一向に答えは出ない。あきらめかけたその時、ふと明治時代に来た外国人技師の話を聞きます。
かつて山奥のある村でこんな話を聞いたことがある。明治時代に入ると日本は欧米の 近代技術を導入するために、多くの外国人技師を招いた。そのなかには土木系の技師と して山間地に滞在する者もいた。この山奥の村にも外国人がしばらく暮らした。「ところが」という伝承がこの村には残っている。「当時の村人は、キツネやタヌキやムジナ にだまされながら暮らしていた。それが村のありふれた日常だった。それなのに外国人 たちは、けっして動物にだまされることはなかった」
※『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』(P.115)より引用
村人はだまされるが、同じ場所にいるのに外国人技師はだまされなかった。つまり、ある共同体の中ではキツネにだまされる人がいたが、共同体の外では、だまされる人はいなかったという事実に行き着いたのだ。
「また会える霊魂」という共通の認識
私は自分で調べた結果として、また実体験として霊魂があると断言できますし、信心からもあると思っています。強制や強要はしませんが、「また亡くなっても会える」という考えはとても重要な気がします。「また会える」ことによってどれほどの人の心が救われ、どれほどの人が前向きになれたか計り知れません。
確かに霊魂は、先ほどの「キツネにだまされた村人」と同じ共同体でのみ交わされる、局所的な共通認識なのかもしれません。目に見えないし、なにか古臭いし、知性もないのかもしれません。しかし、私たちの祖先は、この「また会える霊魂」という共通認識を大切に守り、多くの人がそれで救われ、次世代に継承してきたのです。これは何よりも大きな日本人の叡智ではないかと感じるのです。
葬儀を卒業式と考えると、法事やお盆は同窓会だと聞いたことがあります。葬儀は亡くなった方がこちらの世界からあちらの世界に巣立つ卒業式。法事やお盆は、亡き人と生きている私たちが共に集い交歓する大切な同窓会。旅立ちの儀式も大切ですが、また会える機会も大切にしていくことも、重要なのではないでしょうか。
私は、目に見えないからとか、古い考えだとか、知性がないからとかいう理由だけで、霊魂の存在や共通認識を一蹴してしまうことはしたくありません。ましてや、霊魂に対する認識がなくなった時にどれほど大きな被害がでるか恐怖を感じます。
現代の私たちは、知性によってとらえられたものを絶対視して生きている。その結果、知性を介するととらえられなくなってしまうものを、つかむことが苦手になった。人間がキツネにだまされた物語が生まれなくなっていくという変化も、このことのなかで生じていたのである。
※『前掲書』P.161
私たちはもう一度、祖先が遺してくれた大きな叡智に感謝して、改めて、次世代に継承することを認識してもよいのかもしれません。