逆打ちお遍路さんの衝撃の一言「いつも初めてです」(長谷寺住職・岡澤慶澄)【けいちょうの徒然お遍路記(11)】
2021.12.20
岡澤慶澄(おかざわけいちょう)
昭和42年長野県生まれ。平成4年、真言宗智山派総本山智積院智山専修学院卒業。平成19年より長谷寺住職。本尊十一面観音の本願である慈悲心を、「いのり・まなび・であい」というキーワードに活動している。
前回(安楽寺の霊験譚。信仰が信仰を呼ぶ)はこちら。
鍵をたくさん持つ人は悲しみをたくさん抱える
井上陽水が、「鍵をたくさん持っている人は悲しみをたくさん抱えている」というようなことをどこかで語っていて、なるほどそうかもしれないと深くうなずいたことがあります。実際、井上陽水には「鍵の数」という歌もあります。
それでは、私はどうでしょうか。歩き遍路をした時から25年以上の年月を生きた今、密かに胸のうちを振り返ってみれば、人には言えないような情けない体験や思い出、エゴイズムゆえの恥ずかしい行為、それゆえにもたらされた苦悩、そんなあれこれを隠した秘密の部屋のような場所が心の中にあり、その部屋を閉め切った鍵をガチャガチャと持ち歩いている気がします。
禅僧はよく「本来無一物 」といいます。何も持っていなければ心はさぞ軽いことでしょう。その境地に至れば、全世界いっぱいに私という存在が広がり、豊かな心持にもなるでしょう。でも、実際の私たちの心は、執着心で満ちていて、とても無一物とはいきませんし、マインドフルネスが流行する昨今は「手放そう」という言葉を耳にすることはありますが、そう易々と心の傷や悲しい思い出を手放せません。だからこそ、四国八十八ケ所の遍路道は今も昔と変わらずにあるのではないでしょうか。
逆打ちのお遍路さんとの出会い
遍路の道中で、「あんたたち、荷物多すぎだよ」と、顔を合わせるなり開口一番に私に向かって言う人がいました。
その男性のことは、今でもよく覚えています。全身から活力がもりもり溢れている人で、10月も半ばだというのにTシャツ。太ももやふくらはぎの筋肉がむきっと盛り上がるのがよく分かるスポーツウェアで、私に語りながらストレッチ体操をする勢いでした。
確かに、私の荷物は多かったのです。大きなリュックに、着替えなどいろいろ詰め込んであって、道中の心配をあれこれしては絆創膏やタオル、針や糸を持っていました。今となっては微笑ましくもあるビギナー遍路の完全装備という仕度でしたが、彼はそれを「全部送り返した方が良いよ、さもなくぱ捨てちゃえば良い」と言い放ちます。
「パンツなんか、履きつぶせばいいんだから、着替えなんていらないよ」。なんだか、その朗らかな快活さに圧倒されて聞いていましたが、実際彼の言うとおり、一日歩き続けて九番札所にたどり着いた時には、歩いた疲労感以上に、荷物の重量感にへこたれていたのが正直なところでした。
その悪びれない口調でビギナー遍路に教育的指導を与える男性は、「逆打ち 」のお遍路さんでした。逆打ちとは、文字通り逆さまに八十八の寺を巡ることで、八十八番の寺からお参りするわけですが、普通の「順打ち」と比べると何倍もの困難に遭遇するといいます。そもそも案内板は全部反対向きになってしまうので、道に迷いやすくなります。
でも、その逆打ち遍路は、弘法大師に出会う確率は、順打ちより高いともいいます。なぜなら、今もなお遍路道でご修行され続けているという弘法大師は順打ちに歩んでおられるわけですから、逆に進んでいけば、いつか必ずお大師さまは前からやってくるはず。それを信じ、逆打ちを選ぶ人は、それだけ一刻も早くお大師さまにあって救われたいと願う、何らかの緊急事態か、より深刻な願意を持っている人が多いといわれます。
しかしその男性には、逆打ちの悲壮感のようなものは微塵もなく、まことに陽気で、声のトーンもメジャーコード、とにかく元気そのものでした。世間には快活すぎて周囲の人に迷惑をかけているタイプもありますが、その人物はそういうふうでもありませんでした。いちいちごもっともと話しにうなずく、ビギナーらしい私たちに対して、お茶を買ってお接待をしてくれました。そして私たちは門前に広がる田んぼの畔に腰を下ろし、しばらく話しをしました。
衝撃の一言。「いつも初めてです」
荷物が多すぎる私たちでしたが、いで立ちは僧形なので、彼も興味を持ったのでしょう。宗派はどこか、どんな修行をしているのか。私たちの答えを聞くと、それはどういうものなのか、と興味深そうに質問を重ねてきました。聞かれるままに答えましたが、私の方も聞きたいことがたくさんありました。彼の質問攻勢がおさまったところで、私からも尋ねてみました。
「もう何週も回っているんですか?」
彼は四国遍路の道について熟知しているというオーラを漂わせていました。どの世界でも、ビギナーからすると、先を歩んでいる人というのはまぶしく見えるものです。精悍で自信に満ちた様子は、すでに何度も歩き遍路をしているという風格のようなものを感じさせました。
ところが、彼の答えは私の予想を裏切るものでした。彼は質問した私をじっと見て、そして「そういう質問が来ると思ったよ」というニュアンスを含んだ微笑みをちらっと見せてこう言いました。
「いつも初めてです」
※次の記事(文殊菩薩の一撃)に続く