安楽寺の霊験譚。信仰が信仰を呼ぶ(長谷寺住職・岡澤慶澄)【けいちょうの徒然お遍路記(10)】
2021.10.07
岡澤慶澄(おかざわけいちょう)
昭和42年長野県生まれ。平成4年、真言宗智山派総本山智積院智山専修学院卒業。平成19年より長谷寺住職。本尊十一面観音の本願である慈悲心を、「いのり・まなび・であい」というキーワードに活動している。
前回(お遍路は歩く瞑想。歩行が身体を鍛え、瞑想の質を高める)はこちら。
安楽寺の霊験譚
よく言われるように、1番から10番札所までの道は、その後続く遍路道の険しさに比べると、とても楽な道が続きます。お寺の名前にも、極楽寺、安楽寺、十楽寺と「楽」のつく名前の寺が目につきますが、それは「最初は楽な道が続くから楽の字のつく寺が多いのだ」というまことしやかないわれもあるようです。実際、寺と寺との距離も短く、それほど険しい坂もなく、また吉野川沿いのおだやかな景観は、心をなごませてもくれます。この「楽」なムードは、やかで11番の藤井寺を境に一変してしまうのですが。。。
私はこの6番札所安楽寺は、現代の遍路文化において、とても大切なお寺ではないかと思っています。というのは、ここでお大師さまによる驚くべき霊験が起こったからです。正確には、しばらく歩いて高知県に入ってからの札所、神峯寺でそれは起こるわけですが、霊験譚はこの安楽寺にこそ始まります。
とても有名な出来事ですから、これをお読みの方の中にもご存じ方は多いと思いますが、かれこれ60年ほど前、脊髄カリエスという難病にかかり、余命いくばくもないと診断された女性とその夫が、安楽寺の住職のすすめで一縷の望みをかけて、命がけの遍路旅を発願敢行し、先に示した神峯寺において奇跡的に快癒してしまうという出来事が起こります。
女性と夫は、深く感激して「これは安楽寺のご本尊薬師如来の霊験である」と、報恩のために大きな薬師如来像を新たに造顕して安楽寺に寄進されました。
信仰の尊さを知る。参詣者が絶えない安楽寺
私は、修行僧時代にこの寺の宿坊に泊まって、直接ご住職からその霊験譚をお聞きしましたが、その病気平癒の奇跡への、ご夫妻の一途な報恩行に感銘を受けました。感銘というより、衝撃といった方が良いかもしれません。そのような話は前近代的なものであるという、現代っ子らしい「常識」を持っていた私にとって、この霊験譚は、その後の坊さん人生にとって決して小さくない出来事と言えます。
それまでは、無知のために、そういうことへの理解のなかった私ですが、この安楽寺から始まった霊験譚を知り、信仰というものの尊さや、それを信じて歩み続ける人々に対する、私なりの敬意というものも生まれてきたように思います。今思えば、私がこうして四国遍路の旅に出たことの中には、そんな人と実際に出会ってみたい、いやどんな小さな体験でもいいから、自分自身が弘法大師の霊験に預かれるものなら預かってみたいという思いもあったと思います。
安楽寺の境内は、この霊験をきっかけに参詣する人が増大し、自分も本尊薬師如来や弘法大師の霊験に預かろうと願う人々の祈りが寄せられ、香煙は絶えることがありません。伽藍は美しく整備されることで、信仰が信仰を呼び、またまたご利益に預かる人が増えて、いよいよ御本尊さまの威光が輝きを増す。このようなお寺の様子そのものがひとつの奇跡を見るようです。
お大師様のお計らい?私にも起きたか?
みなさんは「霊験」という出来事をどうお考えになるでしょう。この連載の最初の頃に弘法大師の「お計らい」や「おとがめ」についても書きましたが、遍路の道々には、弘法大師や各寺のご本尊の霊験譚をはじめ、実に様々な不思議なお話が語り継がれていますし、そのような出来事に出会います。この道中記でも、折りに触れてご紹介していきたいと思っていますが、「歩く」という緩やかで確かな日々の行為は、そのような「出来事」に対して、いっそう気持ちを開いていくように思われます。歩くという行為は、私たちの心身を世界に開き、そして宗教性を開いていくものなのかも知れません。
「楽」という字のある寺々のお参りも進み、日もだいぶ西に傾いて、私たちの歩き遍路の初日の旅も終盤に差し掛かってきました。初日の緊張もいくらか緩んでは来たものの、まだまだ土ぼこりの汚れもないきれいな旅装束の私たちが、足の疲れを感じながらも第9番札所の法輪寺の門前にたどり着いた時でした。門前から続く10番札所切幡寺へと続く遍路道から、反対向きに歩いてくるひとりのお遍路さんの姿があります。快活で、ぐいぐい弾むように歩いてちょうど法輪寺の山門の前で私たちは会いました。
この人物が、先に遭遇した謎の400周老遍路とともに、私の歩き遍路にとって、とても意義深い出会いとなって方でした。その人は、我々に快活に微笑むと、開口一番こう言いました。
「あんたたち、荷物多すぎだよ」
※次の記事(逆打ちお遍路さんの衝撃の一言「いつも初めてです」)続く