学習塾の塾長×お坊さん – 浄福寺 副住職 岩田英証さん (兵庫県川西市)
2016.07.25
はたらくお坊さんにインタビューする「坊主めくり、アゲイン〜二足のわらじ編」、今回のインタビュイーは、兵庫県・伊丹市にある「学習教室サクセス」の塾長先生・岩田英証さんです。
寺子屋の昔から、お坊さんの兼業といえば「先生」。あるいは、お寺に学習塾を併設して教えるお坊さん・坊守さんは今も多いと思います。
ところが、岩田さんは塾を開くにあたっては、生まれ育ったお寺から離れた土地を選択。縁もゆかりもない町でひとりコツコツと実績を積み、生徒数を増やしてきました。「先生」であると同時に「起業家」と呼んでも差し支えなさそうです。
祖父母も両親も「先生」でした
岩田英証 (いわたひであき)
1975年兵庫県生まれ。浄土真宗本願寺派・浄福寺副住職。「学習教室サクセス」塾長。龍谷大学大学院文学研究科真宗学専攻修士課程修了。3年間大手学習塾に勤務したのち、2003年伊丹市にて「学習教室サクセス」を独立開業。地域でも話題になった朝6時半からの「早朝特訓」、中学3年生を対象に自坊で実施する「ど根性合宿」など、ユニークな取り組みで塾業界に新風を送り込んでいる。
岩田さんは、祖父母も、ご両親も学校の先生という教育者の家系に生まれました。お母さまは、結婚を機に中学校の英語教諭を退職して“寺子屋”を開いたため、放課後になると宿題を抱えた子どもたちが毎日のようにお寺にやってきていたそうです。
そんな環境のなかで、岩田さんが「教える」ことに興味を持ったのは自然なことだったのかもしれまぜん。「未来のお寺の跡継ぎ」が集まる龍谷大学文学部真宗学科で真宗学を深めると同時に、「学校の先生になりたい」と教職課程も履修しました。ところが、大学院の1年目に教育実習が、岩田さんに大きな方向転換を促しました。
教育実習は面白かったのですが、学校では決められた教材を、決められた時間のなかで教えなければいけません。「決められた枠のなかでいかにがんばるか?」というのは、自分には向いていないんじゃないかと思ったんです。それよりも、自分で塾を開いてカリキュラムも教材もゼロから作り上げていくほうが、やりがいを感じられるだろうな、と。
塾開業を決意した岩田さんが“修行先”に選んだのは大阪の大手学習塾。「ここで3年間、人の3倍働いて9年分の経験をしよう」と就職しました。
お寺ではなく、縁もゆかりもない町で開業した理由
“修行”と割り切っていたとはいえ、岩田さんが勤めた大手学習塾の労働環境は過酷でした。授業に加えて、営業や事務、さらには子どもたちの自然体験教室の付き添いと、業務は多岐に渡り、休みはほとんどなし。一ヶ月の労働時間が400時間になることさえありました。しかし、若かった岩田さんは前向きな姿勢を崩さずに、貪欲に知識と経験を吸収したようです。
特に英語に関しては、すごくいい先生のもとで修行できたので、知識も教え方も引き出しを増やすことができました。あとはやはり、自分の限界を見極められたことが大きかったと思います。「ここまでなら、冷静な判断力を伴った仕事ができる」という限界点が見えたというか。そこを超えると、身体も壊すし仕事ができなくなるということを身を以て理解できました。
3年後に退職すると、岩田さんはすぐに塾の開業準備に着手。大手学習塾に勤めている間の貯蓄で、すでに開業資金として400万円も用意できていました。塾を開いたのは、実家のお寺から車で15分ほどの距離にある伊丹市。なぜ、お寺ではなくアウェイな土地を選んだのでしょうか?
塾を始めるなら一度はその主戦場で戦ってみたいと思ったんです。お寺で始めるとどうしても「守られている感じ」がありますから。たとえば、私が塾を開いたらご近所の方たちは「副住職さんがはじめはったよ」と来て下さると思うんですね。そして、もし子どもさんの成績が上がらなくても、「お寺さんがやってはるし」「まあ、いい人やし」と許してくださるかもしれない。それはもちろん、すごくありがたいことなんですけども……。
当時の岩田さんは「その温かさに甘えることはできない」と考えたそう。「今はもう、一周、二周くらいして『お寺に戻っていもいいかな』という気持ちもあるんですけどね」と笑う岩田さんからは、もう十二分に戦ってきた人が持つ経験の厚みが感じられました。
「安心できる場」を守る存在でありたい
「お坊さんであること」は、塾のお仕事に影響していることはあるのでしょうか。こう問いかけると、岩田さんはお寺との対比のなかで、塾における自らの役割についてこんなふうに説明してくれました。
お寺に触れることで求められる働きは、生き方がシンプルになるとか、心が楽になるというところだと思っていて。その手助けをするのが、住職やお寺の職員の役割だと思うんです。塾も基本的には同じだと僕は思っています。自分がここに存在することで、生徒や保護者の気持ちが楽になるというか。漠然とした不安をモヤモヤと持つ状態から、スッと抜けられるような手助けをしたいと思っています。
ただ、お寺と違って塾は「成績を良くする」「高校受験に合格する」など、具体的な課題があります。生徒に努力してもらうために、「怠慢な気持ちとも向き合ってやるべきことをやる仕組み」など、具体的な方策も必要です。
経典などにも書かれているとおり、人間はよくない妄想に囚われやすいものだし、多感な時期の子どもであればなおさらです。「このままで自分の人生は大丈夫かな」「自分はダメな人間じゃないか」とモヤモヤしてしまいます。そこに囚われないためには、今やるべきことにちゃんと目を向けてもらうしかありません。その手伝いを僕らがして、結果としていい人生を送ってもらえたら。
お寺よりも塾での業務に割く時間が多くても、自らの軸となるのはあくまでも「僧侶」だと言う岩田さん。生徒たちと向き合うときにも「僧侶として何かは伝えなければ」という思いを持ち続けているそうです。
生徒のほうから「先生ってお坊さんなん?」と興味を持たれることもあります。そういうときに「何かいい話をしてやろう」という気持ちになることもありますが、やっぱりできていないですねえ。何かねえ、相手に刺さらない感じがして。どういう話題で、どういうふうに言えば刺さるのか試行錯誤しています。修行不足やなと思いますけども、相手に刺さらない言葉を言い続けるのもどうかと思いますので。
「学習塾サクセス」は個別指導の学習塾です。教えるときは「生徒の知識のデコボコに入っていくようにする」という岩田さんは、常に相手の反応や手応えを大切にしながら、人と向き合っているようなところがあります。お坊さんとして話すときにも、相手との間に感じられる確かな手応えを探っているようです。
これは、経験的につかんできたことですが、子どもは押し付けがましい人には反発するので。変化球を投げるようにしながらですね。「こういう面白いものがあるけど、どうする?」「決めるのはキミやけどな?」とか。そういうオプションをたくさん持つほうがいいと思うんです。
僧侶とは「問いを立て続ける存在」です
今年5月、岩田さんは新たに「株式会社みんなの教室」を立ち上げ。塾を安定的に運営するための組織作りに着手しました。いずれ住職としてお寺を担うことを視野に入れたしくみづくりです。住職になったら、「今、学習塾で経験していることはすごく役に立つと思う」と岩田さんは言います。
基本的に、お寺のやっていることに対しては、周りの人たちは「ありがとうございます」というかたちで、クレームを言われることはまずありません。でも、塾では何かあったら保護者からクレームがきますし、学力や子育てに関する悩み相談も打ち明けられます。「プロなのだから、クレームや相談を受けることもこの人の仕事のうちだろう」と思って、本当に切実にすべてを言ってくださいます。その声を聞けることはものすごく大きいことです。
おそらく、相談にくる保護者のみなさんも心のどこかで「塾長さんはお坊さんだから…」と思っているのだと思います。岩田さんも「僧侶としての言葉」は口にしなくても、仏教を背景にした自らの言葉を語っているはず。「」に入れた“僧侶”の存在を感じられることが、悩み相談の場に安心を生んでいるのではないでしょうか。
僧侶は、自分のなかで問いを立て続けて、それを伝えていく存在だと僕は絶対に思っています。「信心とは何か?」「生きるとは何か?」、たとえば野菜を食べてみて「野菜は食べ物なのか、生き物なのか?」とかね。問いを立て続けて、発し続けて、それをお参り先で話したフィードバックをさらに深めて面白くして、また伝えてもっと深く考えてもらう。それは、僕に向いていることで、絶対に好きなことなんです。毎朝、本堂で朝のお勤めをするときにも、そういうお話をみなさんとできたら面白いなと思っているんですよ。
そして、これは本当に大きな質問だったのですが、「岩田さんにとって、阿弥陀さまはどういう存在ですか?」ということも聞かせていただきました。
親鸞聖人がおっしゃったように「不可称不可説不可思議(ふかしょう・ふかせつ・ふかしぎ)」で、思いいたすこともできなければ、見ることも、触ることもできない真実そのもの。口にしたその瞬間から仮のものになってしまう。だから、近づいたと思えば跳ね返され、遠ざけられてしまうんです。近づこうとすればするほど跳ね返される感覚も強いです。
岩田さんは、「善行を積んだら絶対に悟りに近づける」というような、積み上げ式の先にゴールがある教えであれば、「どれだけ法話しやすいだろう」と思うことがあるそうです。しかし、「絶対」を持たないでいようとする先生が、受験生を教えているということがすごく大事なのかもしれません。だって、人生には「絶対にこうだ」と言えることはほとんどありませんよね…?
私が感じたことを率直にお伝えすると、岩田さんは「そうなんですよ」とうなづいてくださいました。
教育の現場で問題になるのはたいてい「自分は正しい」「こういう人間であるべきだ」など「絶対」という気持ちの押しつけです。たとえば、ヒステリックに子どもを叱ってしまうお母さんも、どこかに「絶対にこうだ」という気持ちがあるからこそ「どうしてわからないの!」と声を荒げてしまうと思うんです。これからは良い先生の像も、「迷いながらも一緒に考えていく先生」に変わってくるのではないでしょうか。
インタビューが終わるころには、お坊さんの言葉を聞いているのか、学習塾の先生の言葉を聞いているのか、その違いがわからなくなってきました。やっぱり、岩田さんのベースはあくまで「お坊さん」。学習塾の世界でプロフェッショナルを目指しながら、同時にお坊さんとしての研鑽も行われてきたのだろうと思います。「迷いながら一緒に考える先生」から「迷いながら一緒に考えるご住職へ」。いつかお寺に戻られたときに、また改めてお話を伺いたいものです。