「お遍路を400周!?」ただ者ではない老遍路との出会い2(長谷寺住職・岡澤慶澄)【けいちょうの徒然お遍路記(8)】
2021.08.20
岡澤慶澄(おかざわけいちょう)
昭和42年長野県生まれ。平成4年、真言宗智山派総本山智積院智山専修学院卒業。平成19年より長谷寺住職。本尊十一面観音の本願である慈悲心を、「いのり・まなび・であい」というキーワードに活動している。
前回(「物心つく頃から母と歩いていた」老遍路との出会い)はこちら。
この人はただのお遍路ではないのだな
その老人遍路と道連れの旅は、距離にしたら一キロにも満たないものだったと思います。足を引きずるように、ゆっくり進む老遍路に、私はまた尋ねてみました。
「おじいさん、何週くらい周っているんですか?」
今となって思えば、もっと他に尋ねてみるべきことや、話してみるべきことがあったと思うのですが、私が訊いたのはそんなことでした。初心のお遍路さんというのは、何週周っているかとか、そういうことに意識が行きやすいのです。でも老遍路はじっと考えてから答えてくれました。
「400周くらいまでは数えたんだが、もう分らん」
「よ、よんひゃく、しゅう?・・・」
これがどのくらいのことなのか、ちょっと考えてみましょう。
四国遍路は、歩いて巡ると健脚の人で1ヶ月を要するといわれます。普通の健康な成人男性で40日とすると一年間歩き遍路をずっと続けて9周くらい。すると400周ということは、少なくとも40年近く歩き通している計算です。しかし、と私は老人の風体を見つつ考えます。
「この人、さっき、もの心ついた時から母親に手を引かれて歩いていた、と言っていたよな・・・」
ということは、想像するに、この人にとって遍路道は単に祈りの道というだけではなく、生活の場だったことになります。要するに遍路道沿いの人々や寺々、あるいは他の遍路からの「接待」を糧として暮らしてきたのではないか。そうか、この人はただのお遍路ではないのだな、、、。
遍路道は命をつなぐための道でもあった
実は四国遍路の歴史を紐解くと、ここには信仰や懺悔のような動機で集まってくる人ばかりではなく、遍路の接待文化にすがることで生きようとする人々が少なからずあったことが分かります。不治の病の人、かつて「業病」と恐れられた病になってしまった人々、罪を犯して故郷を追われた人など、家族や共同体との縁を失った人々が、遍路姿になってこの道を歩きました。つまり巡礼の修行として托鉢 をする人とは別に、いのちをつなぐために物乞いをする人もあったのです。
もちろん接待をする側にとって、接待という慈悲喜捨 の徳を積む本質から言えば、施しをする相手がお遍路さんであるか物乞いであるかの差別はあってはなりません。分けへだてのない施与の徳を積んでこそ、弘法大師のお心ら叶うのですから、むしろ信心のある人はお遍路さん以上に、物乞いの人に対してこそ進んで接待をしたでしょう。
アジール(避難所・無縁所)としての次元にある遍路道
しかしことは宗教の世界の話に収まりません。古くは四国の各土地を治めていた殿さまに始まり、近代になっても地域の行政や警察の立場からすれば、文字通りどこの馬の骨とも知れず、ましてや犯罪者や、感染症をもたらすかもしれない人々が、無一文で自分たちの領内に次々とやって来てウロウロするのを泰然と構えているわけにはいきませんでした。ですので、遍路の歴史の中には「遍路狩り」などという恐ろしい言葉もあるくらいで、身分の確かなものでないものや、信心もなく端から接待を当てにしている人々を「えせ遍路」として厳しく取り締まりました。実際、西国観音巡りや伊勢参りなどの巡礼に出るには、菩提寺が発行する身分証を携帯していたものです。
ところが飢饉とか不況になると、そのような接待を当てにやってくるいかがわしい「えせ遍路」が増え、接待にあずかれなければ畑を荒らしたり寺の賽銭をくすねたりする輩もあったでしょう。為政者にしてみれば「えせ遍路」は忌ま忌ましい存在だったに違いありません。そのせいか、四国路の人々にとっても、お遍路さんは百パーセント大切にされるわけではなく、ある意味で共同体への招かれざる他者として、忌避される存在という一面もありました。実際、私自身、ある場所を歩いているとき、年端も行かない小学生くらいの少年たちに「ヤーイへんろへんろ」と言って遠くからはやされ石まで投げられたこともあったくらいです。
しかしそれでもなお、何らかの事情で故郷を失い、家族を失った人々は、遍路道にやってきたのです。その意味において、遍路道はアジールとして、つまり避難所、無縁所としての次元を確かに形成していたのだと思います。他に生き場を失った人々に、信心の有無も問わず、病人であれ、悪人であれ、遍路のいで立ちさえしていれば、道々の人々は施しをしてくれるので何とか生きていくことが出来る。そのような次元にまで、遍路の世界が広がっていったことに、弘法大師という存在の底知れなさを感じます。
私は、老遍路の「400周」という言葉に驚いて圧倒されるばかりでしたが、今思い出される彼の姿から、そういう世界(アジール)としての遍路道に思いをはせています。近代化とともに、そういう役割は遍路道から消えていったのですが、この老遍路は、そのような次元に生きた人々の面影を伝える人であり、異様な姿と異臭によって、きれいに整えられていく遍路道に何かを伝えているかのようでした。
老遍路がまた独り言のように言いました。
「最近は、どの寺も冷たくなって床下に泊めてくれんし、坂道もよう歩けんから、下の方からお大師さんを拝んどるだけや」
そして彼は口を閉ざしました。口を閉ざすというより、「もう行ってくれ」というふうに、すっと心を閉ざしたようでした。私も友人も、なんとなくそれを感じ、小さく会釈して自分らのペースへ歩みを戻しつつ、老遍路をあとに残し、まださっきの雨でぬれてむんむんする遍路道を歩いていきました。
歩きながら私は「ものごころついた時には母親に手を引かれて遍路道を歩いていた」と語った老遍路の、その遠い昔の幼い姿を思いました。もちろん、それが真実であったかどうか確かめようもありません。戸籍は?学校教育は?税金は?などとつい考えたくなりますが、あの老人には、そういう世間の約束とは別の世界で生きてきたという凄みのようなものがありました。それだけに、母と一緒に鈴を鳴らし、家々の門に立ち、また寺の門前に立って接待を乞う、物乞いをする少年の姿を思いました。
「もはや弘法大師しかいない」という切実な「同行二人」
私が会った老人は、70歳はとうに超えていたと思います。今から25年前ですから、生きていたら100歳くらい。大正生まれでしょう。
高名な高群逸枝 さんの「娘巡礼記」には大正時代の遍路道の姿が記されているので、興味のある方はお読みください。この本に描かれる遍路道のどこかを、私が出会った老遍路も、母に手を引かれて歩いていたのでしょう。あるいは若き日の高群逸枝女史と袖をすり合わせていたかもしれません。
四国遍路は同行二人です。弘法大師とふたり連れ。いつもお大師さまが一緒に歩いてくださる。同行二人とは、遍路道を歩む人の信心を深め、導いていく有り難い言葉に違いありませんが、この少年にとって、その母にとって、この言葉の意味するところはどんなものだったのでしょうか。それは「いつも一緒」という頼もしいニュアンスとはだいぶ違った、「もはや弘法大師しかいない」という切迫した、絶対に手放してはならない、ぎりぎりの歩みを支える杖としての言葉であり、もしかすると、そのような意味としてこの言葉にすがった来た人たちこそが、この言葉を人口に膾炙するものにしてきたかもしれません。
そういえば、しばらく歩いて振り返ると、どこに行ったものか、ゆっくり歩いていた老遍路の姿が見えません。雨上がりの路面には、朝の明るい日がさしてむんむんと湯気立つようで、秋だというのに陽炎が立つようでした。
遍路道は思いがけない道にも通じていると言います。老遍路がどこから来た誰なのか、どこへ行ったのかももはや誰も知らないわけですが、そんなふうにあれやこれやと老遍路の姿を偲ぶにつけ、彼の道と私の道があそこでわずかながらも出会ったのは、今思えばありがたく、どこか夢の中の出来事だったようです。
あの老人は、ひょっとして…。
※次の記事(お遍路は歩く瞑想。歩行が身体を鍛え、瞑想の質を高める)に続く