【秋田光彦さん(僧侶)の“いのち”観/後編】 – アートが宗教に一番近い –
2018.08.20
浄土宗僧侶・秋田光彦さんの「いのち観」インタビュー。後編では「アートの場・應典院」のご住職ならではのお話をたっぷり聞かせてくださいました。ぜひ最後までおたのしみください!
※前編はコチラ https://mytera.jp/paper/inochi_akita1/
秋田光彦(あきた・こうげん)
浄土宗大蓮寺・應典院住職 1955年大阪市生まれ。浄土宗大蓮寺住職。パドマ幼稚園園長。 1997年に塔頭・應典院を再建。以後20数年にわたって、「協働」と「対話」の新しい実践にかかわる。相愛大学人文学部客員教授、アートミーツケア学会理事なども務める。 著作に『葬式をしない寺』『仏教シネマ』(釈徹宗氏との共著)、編著に『生と死をつなぐケアとアート』など。
お寺は広い意味での「つながり」を担保する場所
−−「浄土」という時空を超えた大きな物語への連なり。そこには究極の安心感があるでしょうね。
これまでは「家」という制度が堅固な基盤を形作ってきたから、そこに自分の連続性を帰属させることができた。でも、現代では少子化が加速していて、家そのものがどんどん解体されている。安心よりも不安が先立ちますよね。それをサービスとか消費で解消しようとするのがいまの終活ブームですが、だからこそ、「自然」のように、死後を見据えていまの安心を担保していくような共同体の可能性というのが重要になってくると思うんですね。地縁とか血縁を超えた縁の仲間づくり。その拠り所として、「浄土」のような大きな物語が必要だと思うんです。
−−大蓮寺さんは、應典院さんと協働して、本来的な「終活」のあり方を提示されるようなイベントを続々と打ち出されるようですね。(例:おてら終活祭)とてもたのしみにしています。ところで、ここまで伺ってきたような秋田さんの死生観は、だいたいいつ頃形成されたものなのでしょう?
そうですねえ……。本で読んだ知識としての死生観ではなく、自分の深い実感をともなった人生観として熟成されてきたのは、ここ10年ぐらいですかね。両親をこの数年で続けて看取ったという経験も大きかったですし、親しい友人を亡くしたり、自分が大病を患ったりしたことで気づかされたこともありますし、「自然」の信徒さんとのお付き合いの中で教えてもらったこともありました。「死生観」とひとことで言っても、全人格的なものですからね。決してひとつのマスの中だけで語られるものではない。
大きないのちの連続性に身をまかせる
−−その時々の人との関わりの中で、深まったり広がったりしていくものである、と。
死にゆく人々との交流だけじゃなく、あたらしく生まれてきた人々にもいろいろなことを学ばせてもらっています。私は幼稚園の園長も務めていますが、小さな子どもたちに教えてもらったこともたくさんあります。彼らと毎日触れ合っていると、変な言い方になりますけれど、自分の死生観が、どんどんみずみずしいものに変わっていく気がします。
−−みずみずしいものに。
子どもたちを見ていると、自分の先祖、子孫といった直接のつながりを超えた、大きないのちというものの連続性を感じるんです。いつか自分にも死が訪れる。でも、個別を超えてこの子たちがしっかりいのちを引き継いでくれる。だから大丈夫。この子たちにすべてまかせていけばいい。……そんな感覚になるんですね。死は一人称で完結しない。もっと集合的で、協同的なものだと感じます。應典院に集まる若いアーティストたちにもキラキラとした死生観を感じます。彼らに学ぶことも大きいです。
若い人たちの死生観は表現から滲み出る
−−具体的なエピソードを教えていただけますか?
たとえば、最近、應典院の2階のロビーを舞台にして、演劇やアートをやりたいという団体が増えているんです。應典院のロビーは全面ガラス張りになっていて、そこから大蓮寺の広い墓地が見えます。墓地の背後には何百年前の石垣があって、その向こうには生國魂神社の社があって……。日常の中に「死」が違和感なく混ざり込んでいる、ある種不思議な光景が展開されているわけです。そんな場所をわざわざ舞台に選んで、自分たちの表現を試みる。題材は自死問題であったり、母子の葛藤であったり……。彼らは明らかに場に対する「畏れ」を感じています。それが舞台に滲み出てきます。
−−宗教とアートが違和感なく混じり合った空間。應典院ならではですね。
そういう表現を見ていると、アートというものが持っている本来的な呪術性を感じますね。演劇というのは、もともとは神仏の言葉を取り継ぐために作られたという説がありますけど、そこがストレートに表現されている。若い人は圧倒的に人生経験は乏しい。しかし、だからこそ無垢なものがそのまま現出してくる。死生観というのは、試行錯誤の中から熟成されてくるものだと思うのですね。ある意味、「死」の予行演習。生産と消費、効率と成果みたいなもので埋め尽くされている現代において、これはすごく貴重な経験なのだと思います。私の感覚では、アートは宗教に一番近い。表現を通して滲み出てくる感覚が、現代の死生観の培土になり得ると思っています。
−−秋田さん、貴重なお話をありがとうございました!
お知らせ
秋田光彦さんが住職をつとめる應典院にて、9/25〜26にわたって『おてら終活祭』が開催されます!まいてら住職たちも多数登場する、<お寺にしかできない>終活祭。詳細は下記バナーリンクより、應典院HPをご覧ください。