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観音様と泣き、祈り、遊ぶ。地域の元気が生まれるお寺づくり – 長谷寺 住職 岡澤慶澄さん (長野県長野市)

2016.10.06

お寺を継ぐことへのためらい。僧侶になるまでの魂の遍歴

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仁王門から杉並木の石段をのぼり、鐘楼門をくぐると、美しい観音堂が石垣にそびえ立つ。振り向けば眼下に善光寺平を望み、地域の営みを鳥瞰する。1000年以上も地域の安寧を祈ってきた長谷寺は、「長谷のお観音さん」としても親しまれる。

長谷寺から善光寺平を望む
長谷寺から善光寺平を望む

長谷寺は、観音様の心と触れて再生する場として長く息づいてきました。お参りされる方が清らかに生まれかわり、気持ちよくお帰りいただければうれしく思います。

長谷寺住職の岡澤慶澄さん
長谷寺住職の岡澤慶澄さん

柔らかな眼差しの長谷寺住職・岡澤慶澄(おかざわけいちょう)さんは穏やかに言う。人柄は多くの僧侶や檀信徒に慕われ、格式ある長谷寺の住職としてふさわしい雰囲気がある。しかし、ここに至るには、岡澤さんの魂の遍歴があった。

自分がお寺を継ぐとは思っていましたが、他の家業や経営者と違い、お寺はお坊さんだからおいそれと引継げません。人の生死に関わり、葬儀の導師をするという一点に難しさを感じていました。

宗教は道や法、人生の謎を突き詰めるためのもの。岡澤さんは腹決めのため、人間の生死を考えようと大学で日本文学を専攻。多くの書物や仏教書を漁った。
しかし、授業は面白かったものの、大学は2年で中退。一定の単位を取得して卒業という型にはまる仕組みになじめなかった。ただ、人生は不思議なもので、中退も一つの縁となり、僧侶・岡澤慶澄の誕生につながる。
中退後は宗教を忘れようとしても、そうはさせじと、宗教が岡澤さんの日常から消えることはなかった。アパートの隣人は創価学会の熱心な信者で、南無妙法蓮華経が毎日聞こえる。フリーターとして働き始めた京都・祇園のホテルでは、そのホテルの次男が知恩院で出家。北海道の礼文島でアルバイトした時は、熱心なクリスチャンの老婆と親しくなる。「私はクリスチャンだけどお寺やお経にとても魅かれます。早くその道に行かれたほうが良いですよ」と言われた。

どこに行っても宗教に関わる出会いがありました。そろそろかと腹を決め、智積院の専修学院に行きました。一年中、毎日テンション高く、徹底的に修行に打ち込みました。

お寺の可能性に気づかせてくれた友人の死

岡澤さんは長谷寺に帰る前、東京の病院で清掃員として働く。末期癌の患者が多い入院病棟では、患者から落ちた肌の角質や毛髪が、廊下にたくさん落ちている。廊下で紙が動くと思ったら、トイレに行った老人がトイレットペーパーをズボンに挟んで引きずっていた。人間がみるみる病み、受け答えができなくなる。お釈迦様の説く生老病死では避けられない、「みんないつかはこうなる」という世界が横たわっていた。

四門出遊(※)は今にも生きる考えです。老い、病み、死ぬことは誰もが知っていますが、なかなか実感できません。お釈迦様も病人や死人を見て、初めて病や死の実感が意味を持ちました。四門出遊は仏教の原点ですし、生老病死に接することは、仏教が意味を持つ体験として大事です。檀家さんには、葬儀や法事が四門出遊のような意味の体験であり、そのための肉親の死だったと気付いていただきたいと思い、お話ししています。

※四門出遊とは・・・カピラ国の王子だった釈尊が、王城の東西南北の門を出た時、東門では老人に、南門では病人に,西門では死者に出会った。人生の苦しみを目のあたりにした時、北門では修行者に出会い、出家を決意したとされる伝説。

病院での経験は、岡澤さんが死という臨床現場に最も近づいた時だった。そんな折、高校の友人が突然亡くなる。

衝撃でした。同級生と会ってもお互い何を話してよいのかわかりません。友人の死に接し、「そろそろお寺に帰るか」という思いが湧きました。友人が死をもって、私に縁をくれたのだと思います。

お寺に帰ってしばらくして、親友の一人が彼女の追悼を兼ねて長谷寺でのコンサートを発案した。

コンサートには400名も集まりました。「素晴らしかった」「お寺でこんなことができるなんて」という参加者の声がたくさん聞こえ、お寺がコンサートや、死んだ誰かを受け止める場であるという可能性を感じました。

20年前は、「地域に開かれたお寺」という考えが広まり始めた時期。近くの松本市にはトップランナーの神宮寺・高橋卓治住職がおり、何度も会いに行った。

「住職は数字の十の職だから何でもやっていい。お寺で講演、イベント、コンサート等、何でもやりなさい」と高橋住職に言ってもらえました。お寺をどうしていこうかと考えていた時期でもあり、「開かれたお寺」という考えはぴたりとはまりました。

長谷寺では伝統的な法要のみならず、毎月18日(観音様の縁日)の厄除と所願成就を祈願する護摩祈祷、絵解きで著名な妻・岡澤恭子さんによる釈迦涅槃図の絵解き、200回を超えた毎月の写経会、そしてアートやコンサートなどの多様な行事が営まれる。祈り、語り、学び、遊びを通じて、現代の人々に生きる活力と喜びをもたらす場として長谷寺が再生しようとしている。

岡澤恭子さんによる釈迦涅槃図の絵解き
岡澤恭子さんによる釈迦涅槃図の絵解き

宗教が息づく四国遍路で、日本人の再生信仰に触れる

四国遍路での岡澤さん
四国遍路での岡澤さん

平成8年の秋、岡澤さんは一ヶ月の四国遍路に行った。当時の四国遍路はうらびれた雰囲気で、遍路寺院の本堂には義手・義足・いざりぐるま等、お遍路中に死んだ人の道具が山のように積まれていた。

秩父や西国霊場に比べ、四国遍路は暗いのです。治りにくい病気や犯罪で地縁・血縁から放り出され、行く場所のない人が祈りと懺悔のために最後に歩く場所でした。社会から疎外された人が最後に生きることを許された空間としての四国、最後に受け入れてくれる土地の人々。宗教が担う、悪意も差別も包摂する空間と文化が四国遍路でした。

「ずっと家に帰ってないんだ」と心の底から深く嘆息する人、殺人未遂で何年も逃げ回る人など、社会で居場所をなくした様々な人たちがいた。その中で印象的な出会いがあった。

左右が違うサンダルで、肌は真っ黒で爪が長く、近づけないほど臭い、乞食の行者みたいな人がいました。どのくらい歩いているのか聞いたら、「400周までは数えた」と。どんなに速い若者が歩いても30日はかかるので、一年間でも10週しかできない。「物心ついた時から母親に手をひかれ、歳は多分70代」と言う。とにかくずっと歩いていると言うのです。管理が行き届いた世の中に、こんな仏教説話に出てきそうな人がいるのかと感動し、しばらく一緒に歩きました。

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四国遍路では宗教が息づき、社会が救えない人が救われている現実に触れられたと岡澤さんは言う。
一方、四国遍路は社会で生きる力を得る場でもある。四国遍路は物語が発心・修行・菩提・涅槃に分かれ、それぞれに道場のお寺が決まっている。涅槃のあとに「方便」の道場があり、自分の日常に帰っていく仕掛けがある。遍路の癒しや気付きを日常に持ち帰り、自身の人生の物語を歩み直すという再生信仰の側面がある。

日本人は大きな意味では日本の神道を生きていると感じます。再生は日本人に深く根付いています。日本人の魂は身近な山や自然から来て、そこに帰るという大きな循環の中にあると思います。春に水が流れ出て、平地では米になり、秋には実るという季節の循環があります。人の行ないが悪いと自然の循環が滞るので、お祭りやおはらいをすることで自然の循環がめぐり、食べ物や恵みが与えられるのです。

人も死んだら自然の循環に帰る。けがれのない大自然の循環の中に帰っていけるように、人生のすべての労苦を浄化していく優れた手法として、仏教が日本人の中に息づいてきたと岡澤さんは言う。

悪行や何もかも清める大きな力が仏教にあり、何年もかけて供養しながら、死んだ人の魂が緩やかに自然の中に帰っていく。そして、時々に先祖の魂が帰ってきて実りを与えてくれると昔の日本人は思っていました。山の神社では、農作業で忙しい里の人にかわって神主さんが山をおがむ。先祖の魂があるお寺では、住職が毎日その魂をおがむ。毎日欠かさないから、先祖の魂は喜んで帰ってきてくれるのだと思います。もし今年は不作だったとしたら、住職がさぼっているからなのかもしれません(笑)

死を恐れや暗いものではなく、明るくありがたいものに転換した日本仏教。葬式仏教と揶揄されるが、日本人の生死に仏教は深くかかわってきた。戒名という威力ある仏の言葉で、先祖の魂が迷わないようにしたのも仏教が日本に根付く中で生み出した智慧なのかもしれない。

日本仏教は神道の感性がとても大切です。魂の問題をどう考え、どう送ってあげるのか。経済的な理由だけで葬送の形が変わってしまうと、数世代後の子孫が精神的な傷を負うと思います。前の世代は死者を粗末にしたと言われないよう、住職の役目を果たしたいと思います。

荒唐無稽なお寺の縁起が秘める物語の力

四国遍路から帰ると、観光会社の社長から「僧侶と一緒に札所をまわるとみんな喜ぶ」と誘われ、西国、坂東、秩父の100観音をはじめ、四国や信濃を、5年間にわたって毎月、30-40名を連れて一緒に歩いた。その中で、各寺院の縁起(沿革)はとても優れていると感じたと岡澤さんは言う。

どのお寺の縁起も荒唐無稽な話ばかりです(笑)。歴史の事実かは別として、そのように語ることで、自身とその世界の距離が縮まり、意味をもって働きかけてきます。長谷観音も天女の腕をつけたら温かくなったという「人肌観音」の伝説があります。現実にはありえませんが、物語を聞くと、仏像にしか過ぎなかったものが温かな存在としてイメージされ、観音様との距離が縮まります。長谷寺も人肌観音のいわれを語った縁起として、さかのぼること1400年前、舒明9年(637年)に開山した白助翁(しらすけおきな)の物語を大切にしています。

岡澤さんいわく、語り継がれてきた観音霊場の縁起に触れる体験を重ねると、徐々に参加者が現実の重荷から離れ、物語にほどかれていく感じがあるそうだ。

「ほどかれていく」というのが巡礼の効果だと思います。巡礼は歩みの中で、物語みたいなワールドを転々としながら、結果的には行者さんの坐禅や瞑想と同じような状態に至るのではないかと思います。

地域が元気になることで、お寺も元気になる。地域の人が生きる力を取り戻す場所であり続けたい

長谷寺は初詣や祈祷など、多くの人がお参りする一方、基盤は檀家に支えられている。

長谷寺は長い間、檀家さんが守ってきてくれました。去年、総代・世話人さんの勉強会で寺業計画書を発表したら、衝撃を受けていました。「住職はそんなことを考えていたのか」と。お寺の経営を具体的に考えようと、総代さんを中心に気運が変化しています。お寺づくりを真剣に考えていることが伝わったのでしょう。

長谷寺は地域の将来に深く関わっていきたいと岡澤さんは言う。

地域が駄目でお寺だけがよくなることはありえません。地域が元気になる機能としてお寺が役割を果たせば、結果的にお寺も良くなります。観音様のもとにみんなが集まり、豊作を祈り、収穫に感謝し、村全体の思いを再確認する場所がお寺でした。地域の人が泣き、祈り、遊ぶという、地域の機能を果たす場所に再生していきたいです。

観音堂での護摩祈祷
観音堂での護摩祈祷

地域の人や家族が人生のあるステージになったら、お祈りや厄除けで長谷観音にお参りしてほしいと岡澤さんは願う。最近は、参詣者が打つ鐘の音をよく感じるようになり、日常に祈りの時間を持つ人が増え始めているという手ごたえがある。

長谷観音が昔から信仰されるのは、人間の内にある慈しみや愛などの観音性がよみがえる聖なる場所だからです。長谷観音にお参りされた方が、自身の内に流れる観音性に出会い直していただければうれしいですね。

長谷観音は今日も広大な善光寺平を眺め、人々の安寧を願っている。長野市と言えば善光寺が有名だが、少し足を伸ばして長谷寺にもお参りされてはいかがだろうか。長谷観音、そして住職をはじめとする長谷寺の人々があなたを温かく迎え、明日からも歩む元気を与えてくれるだろう。

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お寺画像
長野県長野市
金峯山 龍福院 長谷寺
日本三所 長谷観世音霊場

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