まいてら編集部員たちの”お寺のある”日常

まいてら編集部日記

瀬戸内海で死者の記憶について考えた(後編)- お寺は「死者の記憶バンク」

2017.12.07

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まいてら編集部の井出悦郎です。前回の記事では、日本社会におけるお墓の「現在とこれから」についてとりあげ、自分の寿命を超えた時間軸でお墓をとらえる重要性を考えました。

今回はさらに発展して、お寺における死者の記憶の継承について考察します。

死者のソフト面の記憶は、宗教が担ってきた

法律では一般的に死者の人格権は認められません。法律はお骨というハード的側面は管理しますが、故人の人格にも類する戒名等のソフト面は管理しません。そのため、死者にまつわるソフト的な側面は長い間、宗教が担ってきました。
そして、多くの日本人は戒名という強力な形で、死者という存在に生まれ変わった故人を記憶し、後世に引き継いできました。お寺では戒名を過去帳に記し、位牌堂があるお寺では位牌を祀ります。そして、多くの家庭でも仏壇に位牌が祀られ、子孫に引き継いできました。

デジタル技術による死者の記憶の保存

また、最近はデジタル技術の発達も、死者の記憶の保存を変化させています。
遺品や写真で故人の記憶を保存することは一般的ですが、最近はデジタル写真・動画で、故人の記憶を保存する方も増えているのではないでしょうか。

そして、このソフト的側面を、これからは宗教に代わって、新しい公的存在が担っていく可能性もあります。例えばFacebookには「追悼アカウント」があり、亡くなった方の情報をネット上に留め置きし、家族やご縁のある方々が偲ぶことも可能です。デジタルデータが劣化する可能性や、手元のデジタル写真をあまり見返さないことも考えると、個人で管理するよりも、信頼と資本のある組織に管理してもらうほうが楽かもしれません。
豊島の「心臓音のアーカイブ」も、心臓音というユニークな切り口ですが、長期的には死者の記憶を保存する役割を担うかもしれません。

死者の記憶を保存する主体に必要な条件は「永続性」

しかし、技術が発達しても、大切なのは「死者の記憶を保存する主体が永続的かどうか」という点に極まります。
FacebookやGoogle等のネット企業は技術的にはまったく問題ありませんが、直観的に100年後も存在する可能性は低いと感じます。そして、「心臓音のアーカイブ」もベネッセホールディングスの株主配当に依存していることを考えると、100年後も存続しているかは未知数です。
一方で、お寺は昨今運営が厳しいと言われますが、100年後も存在するお寺は全国に相当数あるはずです。確証はありませんが、お寺は今までも数百年続いてきたから、これからも続く可能性が高そうな気がします。

お寺の運営に支障がないように、誰もが扱えるシンプルな技術で、費用も安価であれば、お寺がデジタルを活用して死者の記憶を保存することも可能になるでしょう。
祖父母の姿や声の記憶がある人は多いと思いますが、それよりも前の先祖は分からないという人も多いでしょう。そして、そもそも自分のルーツがよく分からないという人も、全国に相当数いるはずです。
しかし、これからの時代は先祖の情報を記憶する技術が発達していきます。会ったことがない先祖の声やメッセージを聞けたら、子孫にとっては生きる力になる場合もあるかもしれません。

お寺の役割は「死者の記憶バンク」

お寺の本来的な役割は墓地管理人ではなく、「死者の記憶バンク」です。

過去帳に、住職が接した故人の人柄やエピソードが記載されている
故人が大切にしていたレコードや書籍を、遺品としてお寺に寄贈する
お寺の本堂や境内に、故人が寄付したものが大切に置かれている

お寺には、故人に由来する物が数多く寄贈されたり預けられたりしています。
そして、故人の孫やひ孫は寄贈された物の由来を知ることで、お寺で亡き祖父母や先祖と出会い直します。この風景は多くのお寺で見られる事象です。
今までお寺に寄贈される物はアナログ中心でしたが、これからはデジタルが加わってくるのは自然な流れです。一人ひとりがこの世に生きた証が残るのであれば、形は何でも良いと思います。

人間関係が希薄化する時代。死者の記憶の重要性はどう変化していくか

「死者の記憶」というテーマで、色々と考えてきました。
ひと昔前までは、死者の記憶は家族や地域という共同体によって保存・伝承されてきました。近年は、血縁・地縁が希薄化し、死者の記憶の問題が個人化しました。
問題の個人化に応えるべく、様々な選択肢も発達してきましたが、その変化は「楽」への流れとも言えます。下図の「楽×楽」という赤色の領域へ、日本社会は着実に進んでいるように感じます。

夏目漱石は100年前に「こころ」の中で、先生にこう言わしめました。

自由と独立と己とに充ちた現代に生まれた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう。
(夏目漱石「こころ」より)

私は高校生の頃、漱石の慧眼に心を打たれ、以来この言葉が忘れられません。不思議なご縁でお寺に関わる仕事をしている今も、この言葉を時々思い出します。この言葉に表された、人間関係が希薄化している「現代」に、お寺がどう関わるかが問われていると感じています。

死者の記憶とは、人間相互の関係性に支えられてこそ意味を持つものです。故人と生者の関係性。故人をご縁とした生者同志の関係性。人間関係があってこそ、死者の記憶は時空を超えて意味を持ちます。
したがって、人間関係が極限まで希薄化すれば、死者の記憶はそもそも不要になるかもしれません。その時は、お骨もカルシウムと同等の意味性になり、お墓も限りなく意味が希薄化するでしょう。

「楽」の方向に行きついた先に、日本社会に何が残るのかは分かりません。
極端な世界まで行きつく前に、さすがに社会の中で揺り戻しもありそうな気がします。
その揺り戻しがあった時にも、日本の伝統と現代が調和した形で、お寺は死者の弔いや記憶方法についてしっかりと伝え続ける存在であってほしいと心から願っています。

――――――
この記事は、前中後編でお届けしています

あわせてお読みください。

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井出悦郎

井出悦郎

1979年生まれ、東京育ち。東京大学文学部卒。人間形成に資する思想・哲学に関心があり、大学では中国哲学を専攻。銀行、ITベンチャー、経営コンサルティングを経て、「これからの人づくりのヒント」と直感した仏教との出会いを機縁に、一般社団法人お寺の未来を創業。同社代表理事を務める

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