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【阿純章さん(僧侶)の“いのち”観/後編】 – 生きることも死ぬことも「冒険」 –

2018.07.23

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天台宗僧侶・阿純章さんの「いのち観」インタビュー。前編に引き続き、後編も、「人生」そのものを問い直すようなスリリングなお話を、とっても誠実に語ってくださいました。ぜひ最後までおたのしみください!

※前編はコチラ http://mytera.jp/paper/inochi_oka1/

阿純章(おか・じゅんしょう)

天台宗圓融寺住職/円融寺幼稚園園長 1969年東京都生まれ。早稲田大学、同大学院にて中国仏教を研究。北京大学に中国政府奨学金留学生として留学。帰国後、大学講師を経て、現在はお寺での活動を中心に、誰でも気軽に集える坐禅会をはじめ、子どもから大人まで仏教に親しめる各種イベント、セミナーを開催。仏教伝道協会、朝日カルチャーセンター、早稲田エクステンションセンターで講師も勤める。著書に『迷子のすすめ』(春秋社)。

「生」の世界も「死」の世界もファンタジー

もしかしたら、少し物議を醸すような発言になってしまうかもしれませんが、仏教には古くから「さとり」という概念がありますけれど、私としてはそれがイコール真実であるとは考えていないんです。「見性」とか、「一瞥」とか、修行の中でそういった体験があらわれてくることはあるのですが、それだって一瞬のもので、過ぎてしまえば、それがほんとうにあったことなのかどうなのか、絶対に証明できなくて。単なる言葉の世界の産物になってしまうんですよね。だから、さとり体験を得たからと言って、ゴールに行ったということは言えないな、と思うんです。

−−いくら日常では得られないような素敵な体験をしたと言っても、いまここにないものは、どこまでいってもフィクションですものね。

そうなんです。「さとり」に限らず、ほんとうは、なにからなにまでそれなんですよね。「生」の世界も、「死」の世界もぜんぶ不確実で、これが正しいとか、これが絶対だとかいうようなことは、どこまでいっても見つからないのではないのかな、と。そうなってくると、「生」の世界も、「死」の世界も、言ってみればフィクションであり、結局はファンタジーでしかないのかな、と思うんですね。でも、ファンタジーだから、幻想だから、と言って退けてしまうこともできなくて。

−−現に、いま自分がここにこうして生きているという実感は、紛れもなくあるわけですしね。この感触を否定することはできないです。

そういうところを仏教では「仮諦(けたい)」という言葉で表しています。物事はすべて仮に姿を現しているだけ。だけれど、仮だからといってウソだと否定するのではなく、それもまた諦(真理)なんですよ、と言うんです。ただ、仮の世界なのに、そこにあまりにもこだわり過ぎると息苦しくなるので、そこですべては「空」だとも言う。これが「空諦(くうたい)」です。でも、仮の世界と空の世界が別々にあるのではなくて、どちらもいま私たちがいるこの世界のことを言っているんですね。「諸法実相」という言葉もありますが、この世界のありのままの真実の姿という意味で、それは仮であるかとか、空であるかとか、どちらにも偏らないあり方を言っています。でもまあ、結局のところ、いくら言葉を重ねても真実の姿は分かりません。一つ言えるとしたら、「生」の世界にしても「死」の世界にしても、有るか無いかの議論で決着がつく問題ではなく、私たちの認識をはるかに超えたレベルで「死んでも死なない“いのち”」……これも仮の言葉ですが……というものがあるように思います。どちらにしても死んでみないと分かりません。いや、死んでも分からないかもしれませんね。

本気度100パーセントの冒険者として生きる

−−阿さんご自身は、死ぬこと、つまりご自身の肉体や思考が消えてしまうことは怖くないですか?

愛する人々と離れることに対する恐怖というか、悲しみはありますよ。この姿で、このかたちで彼らと出会えるのは、やっぱり、この一回きりなわけですから。それがわかればわかるほど、なおさら、いまのこの世界を大事にしたいな、という気持ちが湧いてきます。

−−ほんとうにそうですね。この人生は一回きりですものね……。

そうなんです。ただ、自分自身が死ぬということ、それ自体に関しては、そこまで恐れてはいないです。「諸法実相」、「死んでも死なない“いのち”」の世界で、またあらたな冒険をたのしんでいくだけなんだろうな、と思っていますから。まあ、それはいまこの瞬間もそうなんですけれどね。次の瞬間になにが起こって、自分の肉体や精神がどう反応するのかなんて、絶対に予測できないわけですし。となると、生きていること自体が冒険であって、死ぬことだってその延長で、ずっとずっと冒険が続いて行くだけなのかな、と。死をきっかけにあたらしい世界に出会えるなら、むしろたのしみだな、ぐらいに思っています(笑)。

−−すごく素敵です。昔からそのようにお考えだったのですか?

いえいえ、こんな風に思えるようになったのはつい最近です。40歳を過ぎて、幼稚園の子どもたちと接するようになってからですね。(※阿さんは幼稚園の園長先生も務めていらっしゃいます。)子どもたちって、ほんとうに真剣な冒険者だなあと思うんですね。なんのために生まれてきたのか、その問いに明確な答えを出すことはできませんけれど、子どもたちの様子を見ていると、「ああ、人間は、ただ、この世界を知るために、学ぶために、冒険するために生まれてきたんだな」と、そんな風に感じることがあるんです。意味とか、目的とか、人からの評価とか、そんなものは一切気にせず、ただただ目の前の世界で真剣に遊んで、それをそのまま表現している。そこに対して本気度100パーセントなんですよね。私たち大人も、日々無邪気に冒険をしていければ、それでいいんですよね。その延長線上で、死んだのちも、同じ態度で冒険をたのしんでいきたい。いまの時点では、そんな風に思っています。

−−阿さん、本日は貴重なお話をありがとうございました!

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小出遥子

小出遥子

1984年生まれ。新潟県出身。早稲田大学第一文学部日本文学専修卒業。編集プロダクション、美術系専門図書館勤務を経て、現在はフリーランスの編集者・文筆家として、仏教系テキストを中心とした編集・執筆活動を行っている。いのちからはじまる対話の場「Temple」主宰。

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