わたしの “いのち”観

死を想って生きること

【小関勲さん(バランストレーナー)の“いのち”観】 – 生きること、それ自体に意味がある –

2017.10.05

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僧俗問わず、各ジャンルで活躍されている多彩な方々に、ご自身の“いのち”観をまっすぐにお聞きしていくこの連載。今回ご登場いただいたのは、最近、各種メディアで話題の、ヒモをゆるく巻くだけでからだが整う不思議なメソッド、「ヒモトレ」の発案者でもいらっしゃる、バランストレーナーの小関勲さんです。「生きていること自体がわからないこと」という前提からはじまった小関さんのお話。「からだ」に真摯に向き合われている方ならではの、大変真に迫った“いのち”観に、ただただ圧倒されます。どうかじっくりとおたのしみくださいませ!

小関勲(こせき・いさお)

1973年山形県生まれ。バランストレーナー。ボディバランスボードの販売をキッカケにオリンピック選手、プロスポーツ選手を中心にバランストレーニング、カラダの使い方を指導。全国にて講演、講習会活動など幅広く活動している 。2009年にバランストレーニングの一環としてヒモトレを発案し更に広い分野にて活躍の場を広げる。また医学的にバランス感覚がどのように影響を与えているか研究も行い情報を発信している。著書に『[小関式]心とカラダのバランス・メソッド』(GAKKEN SPORTS BOOKS)、『ヒモ一本のカラダ革命 健康体を手に入れる!ヒモトレ』(日貿出版社)、『ヒモトレ革命 繋がるカラダ 動けるカラダ』(甲野善紀氏との共著/日貿出版社)、『ひもを巻くだけで体が変わる!痛みが消える!』(マキノ出版ムック)、『DVD付き ヒモトレ入門』(日貿出版社)。

いま、この瞬間に、「生」も「死」も同時にある

――人は死んだらどうなると思いますか?

どうなんでしょうね? そういったことを考えたこと自体、あまりないので……。そもそも、生きているということ自体が「わからない」ことですからね。

――生きていることはわからないこと、ですか。

僕も、小出さんも、いま、心臓が動いているから生きている。それは確かですよね? でも、じゃあ、どうして心臓が動いているのか、と問いを掘り下げていくと、途端にわからなくなってしまう。もちろん、個人の思想において、答えらしきものを提出することはできるのかもしれないですけれど、僕のリアリティとしては、そこはわからないというか、答えなんか出しようがないと感じるんです。どこまで突き詰めて考えても全容はつかめないですから。生きるということの意味は、生きることそれ自体で、それ以上でも以下でもない。そこに脚色は必要ないと感じています。その前提の上で、さまざまな思想や宗教を学んだり楽しんだりするのは良いとは思いますけれどね。

――その前提は忘れてはいけませんね。

生きていることに決まった答えを出すことができなければ、当然、死ぬことに答えを出すこともできなくて……。だから、僕は、「死んだらどうなると思いますか?」という質問に答えることはできないです(笑)。ただ、いま、この瞬間に、「生」も「死」も同時にあるかな、とは思います。僕ら人間って、どうしても「生」と「死」とを分けて語ってしまいがちですよね。でも、そうするとどうしても「過去」と「未来」を「いま」から切り離してして考えることになる。それではリアリティから離れた語りになってしまいます。「死」を未来のものとして考えると、恐怖や不安が湧き上がってくると思うんですけれど、ほんとうの「死」は、「いま」にしかないわけですから。だから、いまの自分の状態が「死」であるとも言えるのではないでしょうか。

――興味深いお話です。

この瞬間瞬間が、生きると同時に死ぬことでもあって、ずっとこの連続でしかないのだと思うんです。そういう意味で、やっぱり、「これ!」と指し示すことのできない「いま」にあらゆるヒントがある。だからこそ、一瞬一瞬を、いかに自分らしく生きていくか。そこに尽きるのではないかな、と感じています。持って生まれた個性に、いかに余計な色づけをせずに、そのままの自分で生きていくか。そこに、生きる意味のようなものも、物事や出来事というかたちとなって、おのずとあらわれてくるような気がします。

「いのち」はものすごい主体性とものすごい協調性とともにある

――小関さんが発案された「ヒモトレ」は、そういった自然なあり方に導いてくれる、大変優れたメソッドだと感じます。

そうですね。ヒモトレのベースには、韓氏意拳(かんしいけん)という中国武術の価値観が流れているのですが、意拳の大きなテーマのひとつに「いかに自然であるか」というものがあるんですね。でも、そこで言われる「自然」がどういうものなのか、ということは教えてもらえないんですよ。というか教えることができない。なぜかと言えば、それは、個人個人が自分で体感して知っていくほかないものだからです。生きるということの意味もこれと同じだと感じます。自分で知っていくしかない。

――なるほど。

それは外側から教えられるものではなくて、ましてや作っていくものでもなくて、そもそも絶対的に自分に備わっているものだと考えます。自然というのは、自分の不自然に気づくことであらわれてくるんですね。求めたり、探したりすると姿を見せてくれない(笑)。そして、ほんとうの意味で自然に、自分らしく生きていると、生命全体のバランスというものにも意識が向いていくんですよ。

――生命全体のバランスですか。なにか壮大なお話になってきましたね……!

自然って、ものすごい主体性と、ものすごい協調性が、矛盾なく混ざり合って存在しているんですよね。たとえば、桜の木が、ある日突然梅の木になることはなくて。桜は桜としての一生をまっとうします。でも、同時に、風が吹けば吹かれるし、虫に食われるときは食われるし、すべてを無理なくそのまま受容しているわけでしょう。人間も自然の一部なら、本来、そういう存在だと思うんですね。ただあること。存在それ自体が答えというか。そう考えると、死生観も、いまを生きるための方便なのかもしれませんね。

――本日は大変貴重なお話をありがとうございました。

※こちらの連載はTemple Webとの連動企画です。「小関勲さんとの対話/いのちとカラダと全体性のお話」もあわせておたのしみくださいませ!

※小関勲さんをゲストとして、北鎌倉の円覚寺にてTemple Schoolを開催いたします。こちらもどうかお見逃しなく!
≪Temple School 特別イベント第3弾≫ 臨済宗円覚寺派管長・横田南嶺さん×バランストレーナー・小関勲さん対話「“いのち”と“つながり”のお話」&ヒモトレワークショップPart.2 

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小出遥子

小出遥子

1984年生まれ。新潟県出身。早稲田大学第一文学部日本文学専修卒業。編集プロダクション、美術系専門図書館勤務を経て、現在はフリーランスの編集者・文筆家として、仏教系テキストを中心とした編集・執筆活動を行っている。いのちからはじまる対話の場「Temple」主宰。

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