わたしの “いのち”観

死を想って生きること

【梶田真章さん(僧侶)の“いのち”観】 – 「願い」のシンボルとなり、この世にはたらきかけ続けていく –

2017.06.12

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僧俗問わず、各ジャンルで活躍されている多彩な方々に、ご自身の“いのち”観をまっすぐにお聞きしていくこの連載。第五回目となる今回ご登場いただいたのは、法然院貫主の梶田真章さん。「これは、あくまで、私の信じる道ですが……」と繰り返されながらも、非常に落ちついた、確信に満ちた語り口で、阿弥陀如来の物語を丁寧にお聞かせくださいました。私個人としては、死者は消えてなくなってしまったわけではなく、「願い」のシンボルとなって、この世にはたらきかけ続けている、というお話が非常に印象的でした。じっくりとお読みいただけますとさいわいです。

梶田真章(かじた・しんしょう)

1956年、浄土宗大本山黒谷金戒光明寺の塔頭、常光院に生まれる。 1980年、大阪外国語大学ドイツ語科卒業。 1984年、法然院第31代貫主に就任、現在に至る。 1985年、境内の環境を生かして「法然院森の教室」を始める。 1993年、境内に「共生き堂(ともいきどう)〔法然院森のセンター〕」を新築、この建物を拠点に自然環境と親しむ活動を行う市民グループ「フィールドソサイエティー」の顧問に就任。 現在、NPO法人和の学校理事。きょうとNPOセンター副理事長。 アーティストの発表の場やシンポジウムの会場として寺を開放し、法話を数多く行う。 著書に『ありのまま―ていねいに暮らす、楽に生きる。』(村松美賀子=構成・文 リトルモア=刊)など。

消えるのではなく、この世での姿が見えなくなるだけ

――人は、亡くなった後、どうなると思いますか? どこか向かう場所があるのでしょうか?

私自身は、阿弥陀仏の浄土(※1)に生まれ変わって、いずれ仏さまになる、阿弥陀仏になる、という物語を信じて生きています。阿弥陀仏という、ある種シンボル化された存在となって、この世にはたらきかけていく、と。

※1「浄土」:一切の煩悩 やけがれを離れた、清浄な国土。仏の住む世界。とくに阿弥陀仏の住む極楽を指す。

――阿弥陀仏とは、具体的にはなんのシンボルなのでしょう?

「願い」のシンボルですね。より詳しく言えば、みんなと一緒に目覚めたい、みんなで一緒に仏さまになりたい、さとりたい、救われたい、という願いです。その願いは普段は私たちの中に眠っているわけですけけれど、「南無阿弥陀仏」ととなえることによって、それが目覚めさせられていく。そういう物語です。

――亡くなって浄土に生まれ変わった方は、そういった「願い」を目覚めさせる存在となって、浄土から、この世の私たちにはたらきかけ続けていく、と。

そうです。いまだって、私たちは、浄土から常にはたらきかけられ続けているんですよ。だから、死ぬということは、消えるということではなくて、この世での姿が見えなくなっただけ、という風に言えます。

浄土からのはたらきかけの重なりの中に「いのち」がある

――この世での姿が見えなくなっても、目に見えない「はたらき」となって、いま、ここにある私たちに、その存在を伝えている、ということでしょうか。

そういうことですね。私の場合で言えば、祖父なら祖父、父なら父、檀家さんなら檀家さん、そのほかにも、ありとあらゆる、私がこれまで浄土にお見送りした方々が、浄土から、さまざまなかたちではたらきかけてくださって、その重なりの中に、私という存在や、願いに基づいた私の行動があらわれているのだと思います。それは、日々の念仏であったり、法話であったり、あるいは目の前にいる方に対してできる限りのことをさせていただきたい、というこころであったりするわけですけれど。

――目に見えないはたらきの重なり合いの中に、いのちと呼ばれる、目に見えるものがあらわれている、ということですね。そして、それが「生きる」ということである、と。

そういう意味で、亡くなった方は消えてなくなってしまったわけではないんですね。だから、ある種、亡くなった方々の世界、浄土の世界が、この世界をぜんぶ包み込んでいるとも言えますね。そして、浄土からのはたらきかけがとくに強くあらわれた方が、念仏をとなえていくということになるのかもしれません。つまり、阿弥陀さまとのご縁があった、ということですね。あえて説明すれば、ですけれど。

信心と行によって「来世」は変わってくる

ただ、その一方で、普通の因縁(いんねん)(※2)のあり方として、私たちの身には、日々、さまざまな煩悩がはたらいておりますので。あれをしたいとか、これが食べたいとか、どこどこに行きたいとか、自分自身をよろこばせるためだけにそういった思いを持つのだとしたら、それは自己愛でしかないわけですよね。

※2「因縁」:物事が生じる直接の力である因と、それを助ける間接の条件である縁。仏教では、すべての物事はこのふたつのはたらきによって起こると説く。

――私たちは、ともすれば、そういった自己愛の中だけで生きてしまいがちですが……。

そうですね。しかし、そんな中で、念仏をとなえようという思いや、みんなで一緒に目覚めたいとかいう願いが自分の中に生まれるというのは、やはり、浄土からのはたらきかけがあってこそだと思いますので。自分の身に、阿弥陀仏の慈悲があらわされた結果として、いま、「南無阿弥陀仏」をとなえさせていただいている。そこにありがたさを感じ、よろこびとともに生きるのが、他力(※3)の道なのではないでしょうか。

※3「他力」:衆生を導く仏の力。とくに一切の衆生を目覚めさせようと発願した阿弥陀仏の力。

――興味深いです。

もちろん、他力以外の道もありますけれどね。いまお話ししているのは、あくまで、私は、そういう道を歩んでいます、というものですので。人は亡くなった後どうなるのか、というご質問でしたけれど、私以外の人のことは、私にはわかりません。ただ、私としては、往生して、浄土で阿弥陀仏となって、この世の人々にはたらきかけ続けていく、という信心がある、ということですね。

――あくまで、梶田さんご自身の物語は、というところからのお話なんですね。

だから、たとえば輪廻転生を信じている人は輪廻するのでしょうし、私の信じている物語だけが正しいとは思ってはいません。今世におけるその方の信心と、それに基づいた行によって、来世は変わってくるのだと、私は、そう思っています。

――梶田さん、貴重なお話をありがとうございました。

 

こちらの連載はTemple Webとの連動企画です。「梶田真章さんとの対話/無数のいのちの重なりの中に、今ここの「私」がいる」もあわせておたのしみくださいませ!

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小出遥子

小出遥子

1984年生まれ。新潟県出身。早稲田大学第一文学部日本文学専修卒業。編集プロダクション、美術系専門図書館勤務を経て、現在はフリーランスの編集者・文筆家として、仏教系テキストを中心とした編集・執筆活動を行っている。いのちからはじまる対話の場「Temple」主宰。

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